令和4年度学位授与式 式辞

第27代総長 湊 長博

湊総長 京都大学から修士の学位を授与される2,193名の皆さん、修士(専門職)の学位を授与される169名の皆さん、法務博士(専門職)の学位を授与される116名の皆さん、博士の学位を授与される541名の皆さん、誠におめでとうございます。

 学位を授与される皆さんの中には、511名の留学生も含まれています。累計すると、京都大学が授与した修士号は90,441名、修士号(専門職)は2,525名、法務博士号(専門職)は2,765名、博士号は47,974名となります。ご列席の理事、関係部局長、プログラムコーディネーターをはじめとする京都大学の教職員一同、皆さんの学位取得を心からお祝い申し上げます。

 博士あるいは修士という学位の制度は、弘文堂の「歴史学事典 第14巻 宗教と学問」によれば、13世紀から14世紀のヨーロッパで、高等教育機関や研究機関としての大学(ユニバーシティ)の成立過程で生まれてきたものです。また、元来は様々な個人試験を経てこれらの大学で教授活動をすることを認める「教員資格」として生まれたものとされています。その後、19世紀にドイツで学術(Wissenschaft)の概念が生まれるとともに、学位は、資格というよりは特定の学問領域における知識習得や研究成果を称える学術称号として世界的に広まってきたようです。我が国でも、1911年(明治44年)、創立からわずか14年後の京都帝国大学が、当時アメリカにあった弱冠34歳の野口英世に医学博士を授与しています。野口英世は、東京の医術開業予備校である東京医学専門学校済生学舎を卒業して弱冠20歳で医師免許を取得し、24歳で渡米して、ペンシルベニア大学医学部のサイモン・フレクスナー(Simon Flexner)教授の下で助手として蛇毒の研究を行いました。本学との直接的な接点は特になかったようですけれども、彼はその成果論文を京都帝国大学医科大学に提出して、医学博士を授与されています。当時の官報には、「右論文ヲ提出シテ学位ヲ請求シ、京都帝国大学京都医科大学教授会ニ於テ、其大学院ニ入リ定規ノ試験ヲ経タル者ト同等以上ノ学力アリト認メタリ、仍(よっ)テ明治三十一年勅令第三百四十四号学位令第二条ニ依リ茲ニ医学博士ノ学位ヲ授ク」とあり、文部大臣からの学位授与が記録されています。ちなみに、この野口英世の蛇毒に対する免疫反応にかかる学位論文は、現在も本学医学部の資料室に保管されており、私は非常に質の高い論文であると思っています。

 現在のような「学位を与える教育課程としての大学院」という教育制度は、19世紀後半、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学で始まり、その後急速に全米の主要大学に広がりました。20世紀以降、アメリカが世界の学術・研究で主導的役割を果たしてきた背景には、世界各地から集まった優秀な大学院生が最先端の研究に従事してきたという事実があったと言われています。アメリカやヨーロッパには、競争力の高い大学院で専門的教育を受けた人たちが、アカデミアのみならず政治や経済など社会の広範な領域で中心的・指導的な役割を担ってきたという歴史があり、学位がパワーエリートの知的な必要条件と考えられてきたのは自然であったのかもしれません。しかし最近、ハーバード大学のマイケル・サンデル(Michael Sandel)教授は、その著書『能力の専制(The Tyranny of Merit)』の中で、アメリカでは、このような高学歴者に浸透した、行き過ぎた能力主義(Meritocracy)が、大多数の市民へのエンパシーの喪失や公共益への貢献という使命感の希薄化をもたらし、社会的分断の要因のひとつになっているのではないかと述べています。彼は、「我々が人間として最も充実するのは、共通善(Common good)に貢献し、その貢献によって同胞である市民から評価される時であり、人々から必要とされることである」と言います。つまり、現代のパワーエリートは、このような謙虚な認識を失いつつあるのではないか、という懸念を示しているわけです。皆さんは、我が国の学位保持者はいまだにこのようなパワーエリートとしての社会的メリットを受けていない、と反論されるかもしれません。とはいえ、サンデル教授の「我々が最も充実するのは、共通善への貢献によって同胞である市民から評価される時である」という指摘自体は、間違っていないのではないかと私は思っています。

 今日私達は、地球の気候変動による環境変化と大規模自然災害、新興感染症のパンデミック、人口・食料問題、貧困や社会格差の進行など、多くのグローバルな課題に直面しています。これらはすべて極めて複雑で不確実性の高い事象であり、個別の学術や科学によって解決され得る課題ではありません。1990年代に、オックスフォード大学の科学哲学者ジェローム・ラベッツ(Jerome Ravetz)は、「科学によって問うことはできるが、まだ科学によって答えることのできない領域」が存在することを指摘し、これをポスト・ノーマルサイエンス と表現しました。ノーマルサイエンスは、因果律の明確な領域における従来の科学であり、これまで人間生活の向上や社会活動における意志決定に直接的な役割を果たしてきました。他方で、ポスト・ノーマルサイエンスの領域では、事実が極めて複雑で不確実性が高く、また意志決定に非常に多くの利害(Stakes)が関与しており、個別のノーマルサイエンスのみでは対応が困難であると指摘されています。ラベッツは、この不確実性は必ずしも既存のビッグデータや超高速演算を基礎とする人工知能(AI)によって解決されうる性質のものでもなく、「安全と健康と環境と倫理の科学(The sciences of safety, health and environment, plus ethics)」として構築されるべきであると提唱しています。今回地球上のほぼ全ての人々が経験した新型コロナウィルス感染症によるパンデミックは、まさにこのポスト・ノーマルサイエンスの領域にあり、このような複雑で重要な社会的課題に対する対応や意志決定において、学術や科学が全体としてどのような形で関与すべきかについて考える重要な機会になったのではないかと思います。

 近年、「総合知」ということが繁く言われるようになってきています。その正確な意味合いは必ずしも明確に合意されているとは思えませんが、その背景には、複雑で錯綜したグローバルな課題、まさにポスト・ノーマルサイエンスの領域にある重要な課題に対しては、単一の科学や技術のみでは有効に対応しきれないという危機感があることは間違いないでしょう。「総合知」の前提条件となるのは、学術と科学の多様性(Diversity)であると私は思っています。今日、多様性の必要性は、個人、社会、さらには人類全体においても様々なレベルで指摘されてきていますが、自然界における生物の維持と進化の点でも、多様性は非常に重要な意義を持っていると考えられています。多くの生物は、特定の環境の中でそれに完全に最適化していくとは限らず、そのいわば二者択一状況においても、しばしば必ずしも定時の環境に高い有利性を示すとは限らない性質を敢えて残す、という戦略を取ることが知られており、“Bet hedging(両賭け戦略)”と呼ばれています。これは、万一環境が激変してその生物の生存に困難な状況になっても、全滅することなくその種の生存が維持されうる可能性を残すための生き残り戦略と考えられます。

 例えば個体の遺伝子には常に一定の確率で変異が起こりますが、変異した対立遺伝子がたとえ元の遺伝子に比べて定時環境下での有利性が小さくても、よほどの不都合がない限り、集団の中で維持されます。それは、変異した対立遺伝子が激変環境下ではむしろはるかに有利に働く可能性があるからであり、その多様性が多いほど、その生物全体の生存維持の可能性が高まり、さらには新たな進化にも寄与し得ると考えられています。ここで最も重要なことは、これらの変異した対立遺伝子が集団から消失せず、来たるべき環境変化の時まで、確実に保存維持されているという状況です。学術や科学においても同様のことが言えるのではないでしょうか。きわめて複雑で不確実性が高く予測困難な将来に向けて、私たちがその存在価値を確実に継続していくためには、学術と科学における多様性の維持は、非常に重要な要素であると私は思っています。「総合知」といい、あるいは本学が創設以来最も重要視してきた「研究の独創性」といい、その前提条件には多様性の維持があることは論を待たないと思います。様々な学術の専門領域での専門的学識や科学的リテラシーを培ってこられた皆さんには、さらに、グローバルで複雑な社会課題を複眼的に俯瞰する力も期待されてきているということかもしれません。

 これから皆さんは、社会の様々な任地へ向けて旅立ちをされます。繰り返しますが、このたびの学位の授与は、到達点ではなく新しい出発点です。その先には様々な困難が待ち受けているかもしれませんが、皆さん各自の思い入れのある様々な領域で、これまでの修練で培われた力を遺憾なく発揮し、やがて「同胞である市民」から必要とされ、承認されるような貢献をしていただくことを、心から期待し、応援して、お祝いの言葉に代えたいと思います。

 本日はまことにおめでとうございます。