湯川 秀樹・朝永 振一郎両博士の生誕百年記念展「素粒子の世界を拓く」 挨拶 (2006年3月25日)

尾池 和夫

尾池総長

 湯川 秀樹・朝永 振一郎両博士の生誕百年記念展「素粒子の世界を拓く」の開催に際しまして一言ご挨拶を述べさせていただきます。

 湯川 秀樹博士は来年2007年1月23日、朝永 振一郎博士は来週の3月31日が、それぞれ生誕百年です。日本のノーベル賞受賞の第一号と第二号の両博士をわが京都大学が輩出したということは、我々京大の誇りとするところであります。京都大学では、この4月からの2006年度を「湯川・朝永生誕百年の記念年度」として、両博士を顕彰すると共に、その事蹟を広く国民に知ってもらうべくいろいろな記念事業を行うことにしております。この科学博物館における記念展はその第一弾ということであります。

 それにしましても、戦後間もない1949年に湯川 秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞をお受けになったことは、京大のみならず日本の一大事件でありました。たとえば、第19代京大総長 岡本 道雄は、基礎物理学研究所25周年記念の式典に際して、その衝撃を次のように生々しく語っています。

当日の様子

 「それにつけても想い出されますのは湯川先生がノーベル賞を受けられた昭和24年の頃であります。私は尚、医学部の助教授でありましたが、戦後の窮乏のあけくれの中に疲れることのみ多い毎日を送っていましたが『1949年ノーベル物理学賞日本の湯川教授に』との新聞報道は同じく科学研究に携わる私共に衝撃的感動を与えました。その夕の帰途にみた時計塔の灯は吉田山を背景にくっきり浮かび上がってみえました。ひとり科学者のみでなく日本国民全体は自信喪失の首を初めて伸ばし、世界をかいま見る気持ちを味わったのでした。以来、この25年はそれを契機に日本人が窮乏のどん底から自ら努力で次第次第に自信をとりもどし国際社会に登場する四半世紀でありました」

 1965年(昭和40年)には、さらに朝永博士の日本人二人目のノーベル賞受賞が発表され、それも大きな影響をうけた出来事でした。

 お二人は京都大学において同級生として、誕生間もない量子力学という新しい物理学を自学自習し、中でも場の量子論というさらに最先端の理論に果敢に挑戦しました。それを原子核の中の「強い力」の起源解明に適用してΠ中間子の存在を予言して、「力の場=素粒子」というパラダイムを作ったのが湯川博士であります。一方、場の理論が持っている無限大の困難を解決して、電子と電磁場の精密科学としての量子電磁気学を完成させたのが朝永博士であります。

 お二人の物理学は、非常に基礎的なものであります。今日のテレビ、コンピュータ、携帯電話、といった電子機器、リニアーモーターカーやMRIに使われる超伝導、など、現代のあらゆるハイテクの基礎は、量子力学と電磁気学であり、量子電磁気学や場の量子論はさらにその基礎をなしています。また、湯川の中間子論は、太陽のエネルギーの起源やこの宇宙や天体の成り立ちを理解するためにも不可欠のものであります。

プリンストン高等研究所でアインシュタイン氏らと議論しながら散歩している湯川博士(京都大学湯川記念館史料室蔵)
プリンストン高等研究所でアインシュタイン氏らと議論しながら散歩している湯川博士
(京都大学湯川記念館史料室蔵)

 このような物理学という専門分野での寄与の大きさもさることながら、両博士はまた、あい協力して、国民の負託から逃げることなく、戦後の研究体制の構築ならびに教育、文化、平和の国民的課題に積極的に活躍されてきたのであります。原子核エネルギーの利用が先ず原子爆弾によって実現され、冷戦下で核兵器の開発・実験が盛んに行われるという人類存亡に関わる事態の中で、ラッセル・アインシュタイン宣言への署名、パグワォッシュ会議への参加、1962年の第1回科学者京都会議などを通して、原子力の平和利用への世論形成に大きな寄与をされました。また、湯川博士のノーベル賞受賞を記念した基礎物理学研究所の発足に際しては、朝永博士らの努力により、全国共同利用研究所という全く新しい学術体制が作られました。

 このように両博士は、専門分野のみならずまことに見事な人生をえがかれたのであります。この生誕百年記念展が、日本の広範な人々にこのような両博士の事蹟を知って頂き、感動を共有する契機を与えることになれば誠に幸いなことであります。お二人を育てた精神風土に思いを致すとき、今日の我々の大学のあり方から、人間の生き方までも、あらためて考えるヒントが多くあるものと思います。

 最後になりましたが、この企画展示の実質的な準備を進めていただいた、佐藤 文隆先生、江沢 洋(ひろし)先生、小沼 通二(みちじ)先生はじめ関係の皆様に深く感謝したいと思います。