京都大学探検部創立50周年記念総会 祝辞 (2006年3月4日)

尾池 和夫

 京都大学の伝統の一つである探検の精神を生み出し育成してきた探検部の創立50周年の総会にお招きいただき、たいへん光栄です。心からお祝い申し上げます。

 今日の出席に当たり、2冊の本を取りだしてきて、もう一度開いてみました。一つは、本多 勝一さんの著書「憧憬のヒマラヤ」であり、もう一つは今西 錦司編著の「大興安嶺探検」であります。本多さんの「憧憬のヒマラヤ」が出版された頃から私の学生時代が始まるという時代関係ですが、その記録には若い頃から影響を受けて、何でも書き残していくという旅行の仕方を見習いました。写真を撮ることと書き留めること、しかも文章にしながら記録していくことを心がけた時代がありました。「憧憬のヒマラヤ」に出てくる藤田さんというのが、私が中国を中心に活断層を調べるというフィールドへの指導者でありました。

 「大興安嶺探検」では、その「序」で今西 錦司さんが「探検というものは、そのスタートにおいて、すぐれた発案者と、この案に共鳴して、これを推進してゆく何人かの熱心な同志と、そして背後から、この案が軌道にのるところまで、これを経済的に援助してくれるよき理解者と、すくなくともこの三つが揃わなければ、成立しない」と述べています。そして学生たちの活躍を紹介し、「一つの精神の記録である。」と述べています。「序」の最後には、報告書の編集のこと、文部省の学術成果刊行助成金のこと、出版した毎日新聞社のことを書いておられます。この報告書が自ずから探検の精神を示しているものであると思います。

 探検大学と異名を持った京都大学では、その精神から次々と新しい組織が正式に発足し、フィールドワークを中心とする研究分野ができてきました。1965年に東南アジア研究センター、67年に霊長類研究所、86年にはアフリカ地域研究センター、91年には生態学研究センターと実を結び、97年に総合博物館、 98年にアジア・アフリカ地域研究研究科、2003年にフィールド科学教育研究センター、2006年地域研究統合情報センターの発足と、今も次々に姿を整えています。

 一方、1963年から始まった文部省科学研究費補助金での海外学術調査でも、初年度の6件のうち2件が京都大学からでありました。これは大いに増えて、 500件を超えるようになっても、京都大学はいつも10パーセント近い獲得を続けてきました。私もそれによって地震観測を行い、例えば韓国では、その地震学の基礎を築くお手伝いをもしました。

 学外でも例えば南極観測などに見られるような京都大学の研究者の活発な活躍があります。JICAの仕事にも、多くの貢献が見られます。今、京都大学の海外拠点は34か所にのぼり、さまざまの形で現地の研究者たちとの交流が進められています。

 西堀 栄三郎さんの精神を継いで、南極観測にも多くの研究者が参加しました。私の研究分野からも何人かが出かけ、とりわけ、初めて昭和基地で越冬する女性隊員が出たのがうれしい経験になりました。

 1997年に生まれた総合博物館の入り口すぐの場所に、私の撮影した中国の写真が展示されているのも、たいへん名誉なことだと思っています。それらもみな、この探検部の精神によってできたものであると思っています。理学研究科長をつとめていたその時、博物館の準備のさなかに、生態学研究センターの井上 民二教授が飛行機事故で亡くなるという悲しい出来事がありました。これも忘れることのできないことの一つです。常設展示場に熱帯林を復元することで井上 民二教授の遺志が受け継がれています。

 東方文化研究所の水野 清一教授をリーダーにした山西省の雲崗の石仏の調査研究が行われていたおかげで、私にもこの大地溝帯の調査を行うきっかけができました。東アジアではめずらしい開いている大地を直接見ることができました。

 探検部に所属したわけではありませんが、その精神のおかげで、私自身もさまざまの調査研究をさせていただくことができたと感謝しています。そのような一人の研究者の立場での経験に基づく感謝の気持ちをお伝えして、探検部創立五〇周年のお祝いの言葉とさせていただきます。

 ありがとうございました。