宇治地区総合研究実験棟竣工記念式 祝辞 (2005年3月8日)

尾池 和夫

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 宇治地区に総合研究実験棟が完成しました。この竣工記念式にあたって、京都大学を代表して、今日の竣工式に至るまで、多大のご努力をいただいた、学内外のご関係各位に深く御礼申し上げるとともに、建設に当たられた皆様と利用者の皆様に、心からお祝いを申し上げます。

 法人化した国立大学では、この1年、たいへん厳しい財政事情の中でのさまざまな改革が行われています。宇治地区の皆さんにとっては待ちに待ったスペースでありますが、とりわけ文教施設費が厳しい状況の中での竣工式であり、身の引き締まる思いで貴重なスペースを使うことになると思います。

 教育と研究に最低限必要な要素は、人、場所、物と言われます。日本の大学ではその創立以来、常に優秀な人材を育成し、大学から送り出すとともに、学内にも常に優れた人材を確保することに努めて、教育と研究に当たってきました。また、研究費に関しては乏しい中でもさまざまな工夫をして必要な資材を調達してきました。場所に関しても過密な状況の中で工夫をしてきました。

 法人化してさまざまな変化がある中で、とくに場所の問題は深刻であります。国の機関であり公務員型の教職員がいた大学で、突然法律が変わり、非公務員型の教職員が仕事をする制度に変わりました。そのため、さまざまな関連法が変わり、労働、安全、環境など多くの面での制度の変化への対応に追われています。実験用の資材を管理するだけでも、法律が変わるだけで多くの場所が必要になります。

写真2 総合研究実験棟外観

 また、いくら工夫ができると言っても限度があり、20世紀後半の急激な学生数の増と大学院重点化による大学院生の増に、今までほとんど十分な対応ができていない現状があります。宇治地区の研究所は、研究の先端を担うとともに、協力講座という仕組みで、大学院生の教育を行うという重要な役割を持っています。そのたくさんの大学院生のための場所が十分には確保できていません。実験の安全を確保し、耐震性を持たせ、新しい研究の展開に備えるためには、まだまだ建物の改修と新設が必要であります。この機会に関係の皆様にもあらためて次のステップへのご努力をお願いいたします。

 宇治市の五ヵ庄の地名は、13世紀末にはもう見られます。近衛家の家領でありました。明の禅僧隠元は、1654(承応3)年に20名の弟子とともに来日し、長崎で布教活動を行っていましたが、幕府から宇治に土地をもらい、来日の7年後に中国から招いた大工の指導で黄檗山万福寺を建てました。万福寺の太鼓・カネ・木魚の伴奏で唱われる声明(しょうみょう)は、アジアで最も古い音律を伝えるといわれています。

 このとき五ヵ庄は天領となり万福寺領とされ、江戸時代には五ヵ庄の岡屋村が近衛家に返されました。明治には軍の火薬庫が作られ、その一部が今、京都大学の研究所や宿舎のあるこのキャンパスとなっているのであります。

写真3 総合研究実験棟外観

 昔、ここには京都大学の教養部の一部があって、入学してすぐの1回生はここで講義を受けました。私も1959年(昭和34年)にこのキャンパスに入りました。火薬庫の跡ですから、点在する建物の周囲には、事故のとき横に吹き抜けないように分厚い土手があり、建物も壁が厚くて天井は薄いという構造で、しかも湿度の高い土地が選ばれてできた施設で、蒸し暑い京都盆地の暮らしを体験しました。私のクラスに50人ほどの学生がいて、ノーベル賞をもらった利根川 進さんも同じクラスにいて、よく勉強していました。今でもクラス会をやりますが、そのころの教育に不満をいうことはなく、学生のときの議論の続きがそのまま始まります。教育がかならずしも施設だけに頼るものではないとも思います。

 そのときから比べると宇治地区は見違える変化です。しかし学問の発展はさらに早く、めざましいものがあり、それに見合う改革とそれを支える場所がさらに必要であるのも確かです。教育と研究の場を整備していくのはいつの時代でも最重要事項でありました。もう一度くれぐれも関係者のご理解とご努力を今後ともよろしくとお願いして、この宇治地区総合研究実験棟竣工のお祝いの言葉といたします。

 ありがとうございました。