博士学位授与式 式辞 (2005年1月24日)

尾池 和夫

当日の様子

 本日、京都大学博士の学位を得られました課程博士89名、論文博士59名の皆さん、おめでとうございます。ご列席の副学長、各研究科長、教職員、ご家族のみなさまとともに、今日まで昼夜を分かたず努力を重ねてこれられたみなさんの尊い研究成果を讃え、新しく誕生した京都大学博士のみなさんの学位取得を心から、お祝い申しあげます。
  京都大学の基本理念には、教養が豊かで人間性が高く責任を重んじ、地球社会の調和ある共存に寄与する、優れた研究者と高度の専門能力をもつ人材を育成する、とあります。みなさんはその理念のもとに、京都大学博士の学位を授与されました。

 昨年末から今年の初めにかけて、メディアが伝えたのは、アンダマン・ニコバル諸島の地下に起こったマグニチュード9.0の巨大地震と、インド洋沿岸の大津波による大災害の状況、それに10年前に起こった兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災のその後のことでありました。いずれも固体地球表層のプレート運動がもたらした自然現象とそれによる災害であります。
  本日の式辞を述べるにあたって、私は基本理念にある地球社会の調和ある共存ということを、この二つの自然現象と災害のことから、もう一度思い起こしてみたい考えました。それは、地球に住む人の社会が地球の自然現象と共存していくために、地球のことをよく理解し、人のことをよく理解していくことが必要だと思うからであります。
  地球や人のことを深く知るということは、大学で行われる研究の役割であり、その研究成果が大学に蓄積されていきます。その蓄積が教育を通して世界の人々に伝えられます。その教育も大学の大きな役割です。このような研究や教育は国の将来のために、あるいは世界の人々に日本が貢献するために、国が積極的に進めていかなければならない事業であり、その結果からもっとも利益を得るのは将来の国であり、世界の人々であります。受益者負担ということばを使って国立大学の授業料を上げる政府の方針は、容認できないと私は思っています。

 さて、今回の学位授与式では、人を理解するために、人をキーワードとする研究成果のいくつかを、学位論文の審査報告の中から取りあげて紹介したいと思います。
 よく、人間だけが文法を持つとか、人間だけが音楽の世界を楽しむことができるとか、さまざまな人間の特性が論じられます。また、そのような人間の社会とは独立に自然現象を理解する科学が進んできました。21世紀においては、これらを総合的に把握しながら共存を考えていこうという態度が重要であります。

 社会健康医学系専攻(専門職学位課程)では、保健・医療・福祉分野における専門職あるいは教育研究職につく人材を養成します。また博士後期課程では、社会における人間の健康や疾病に関わる問題に挑戦するために教育・研究に携わる人材を養成します。
 医学研究科社会健康医学系専攻の赤松 利恵(あかまつ りえ)さんは、「日本人労働者における健康的な食生活に対する解釈と態度」という論文をまとめました。主査は佐藤俊哉(さとう としや)教授です。
 日本人の健康的な食生活観に関する知見がないことから、この論文では、日本の成人男女を対象に、「健康的な食生活」に関する解釈や態度を、面接調査などを行いながら研究しました。調査の対象者(成人男女)は、健康的な食生活にとって、「栄養バランスのとれた食事をとること」と「野菜をたくさんとること」が最も重要であると考えていること、「健康的な食生活」と考えられる食行動は「食生活と食習慣」および「食物と栄養」という2つの因子で構成されていることがわかりました。また、これら因子に関連する対象者の特徴は、因子ごとに異なり、「食物と栄養」に関する因子のみ、食事療法および過去の栄養指導経験が関連していたということがわかりました。
 この研究では、京都府宇治市の職員という職種と年齢の限られた成人を対象としていますが、その調査結果は、欧米で報告されている「健康的な食生活」に対する解釈や態度と異なっており、目本人の食生活習慣に関する特性が反映されていると考えられ、またこれには栄養教育が関連している可能性が見られました。
 日本は先進諸国の中でも平均寿命などで最良の状態をたもっていますが、その要因の一つとして食生活は世界からも注目されています。そのような中で得られた新しい知見は、この分野での研究の進展に貢献することになるでしょう。

当日の様子

 教育学研究科臨床教育学専攻の岡本 直子(おかもと なおこ)さんは、『「ドラマ」がもつ心理臨床学的意味に関する研究』という論文を仕上げました。主査は藤原 勝紀(ふじわら かつのり)教授であります。
 この論文の第1部では、研究目的と意義について、第2部では、調査による定量的研究の成果、第3部では、心理臨床の実際に近い枠組みからの調査研究で、数量的には測り得ないドラマのメカニズムや表現する意味に関する研究へと展開し、第4部と第5部で総括して、方法論的な可能性と今後の課題をまとめています。
 人生は、しばしばドラマに例えられますが、心理臨床の場は、その縮図とも考えられるとのことです。この研究では、心理臨床の場で観察される飛躍的に変化する劇的な心の現象に注目して、その現象を「ドラマ」と捉えて、心理臨床学的に考究したものであります。自らの臨床経験の現実において可能となる研究法によって課題を発見し、統計調査からの研究を積み重ね、それを超えて動態的、臨床実践事例的な研究へ向かった成果として、新しい提案を含む論文が仕上げられました。博士論文の望ましいモデルとしても評価される論文でありました。

 文学研究科行動文化学専攻の倉島 哲(くらしま あきら)さんは、「身体技法と社会学的認識」という論文を提出しました。この論文の主査は寳月誠(ほうげつ まこと)教授です。
 この研究は、武術教室における技の学習を題材にしたもので、身体論、身体技法論の分野に新たな理論的視座を導入しようとしたものであり、刺激にみちた論考であると評価され、また、この研究では、その手法の一つとして、武術教室に4年数ヶ月にわたって参加して観察するという、長期かつ徹底した方法がとられており、その点でも従来の身体技法の社会学的研究のレベルを超えていると評価されました。「いかなる身体技法といえども、それが形成されるのは個々の行為者の具体的な実践をおいてない。同様に、身体技法が働きかけるのも、実践における具体的な人や物をおいてないはずである」という考えが出発点に置かれています。このような具体的な実践に対する視点がこの研究の大きな特長であり、研究の題材と研究の手法の両面から見て、たいへん特徴的な研究であると思います。
 審査報告でも、この論文の優れた特徴について、その理論的視座に関わるものや長期の参与観察にもとづく膨大なデータを駆使した研究などがあげられています。とりわけ、「一見して同じに見える型や技が、練習のなかで多様な姿として現象することを、技の「有効性の微分」現象ととらえて、詳細に考察した点は、本論文のもっとも刺激的なデータ分析である」という報告にそれが現れておりました。

 人間・環境学研究科文化・地域環境学専攻の山﨑 茂雄(やまさき しげお)さんの論文は、「芸術文化支援と公共政策-市民社会の合意形成に向けた文化支援システムをめざして」というもので、主査は足立 幸男(あだち ゆきお)教授です。
 わが国における文化・芸術政策の現状と問題点を、「ア一ティスト.イン・レジデンス(Artist in Residence)」と呼ばれる芸術家支援施策を事例として、文化経済学、文化政策学の観点から分析し、解明したものです。この施策は、国、自治体、企業、大学などが、将来性あるアーティストを一定期間招聘して、その活動のための時間と空間を提供しようとするプログラムです。
 この論文は、より多くの人的、物的資源を投入すれば、その分だけ文化・芸術のレベルは向上するはずという考えを「神話」として、破綻状況にある財政のもとでの文化・芸術支援とはどのようなものであるかという課題に対して従来の文化・芸術政策研究が取り組もうとしてこなかったことへの批判から出発しています。結論として重要なことは、文化・芸術活動に対する公的(杜会的)支援には、地域経済を活性化させ豊かな地域文化を発掘・育成するという潜在力がありますが、文化・芸術支援のために自ら応分の、金銭、労力の負担をしようということが、広く市民に共有されるのでなければ、潜在力のままで終わってしまうということであります。1人でも多くの市民が、文化・芸術支援活動に参加し、ネットワークが形成されるために、大学も役割を果たさなければならないと、あらためて考えさせられる論文でありました。

 ここに紹介したのは、みなさんの研究の一部であり、一面でありますが、みなさんの博士学位論文は、みなさん一人ひとりの人生の記念碑であり、また、同時に京都大学の知の蓄積の一部ともなるものです。その内容はさまざまな方法で公開され、世界の人々にさまざまな形で貢献することになります。
 みなさんは今日から京都大学博士と呼ばれます。この学位を得るために、今日まで、特定の分野を深く掘り下げて論文にまとめられました。今後はさらにそれを深めるとともに、一方では視野を思い切り広げてさまざまな分野に触れ、それらを総合して得られる広い視野を持って学問を志してほしいと思います。
 本日新しく京都大学博士になられたみなさんも、知の蓄積と自らの研究成果とを世界の人々に伝える教育にも活かして、さらなる研究の進展をはかり、地球社会の共存を目指して活躍されることを願って、私のお祝いの言葉といたします。
 博士学位おめでとうございます。