尾池 和夫
今日、新たに、580名の京都大学博士が誕生しました。学位を得られた方々、まことにおめでとうございます。副学長、各研究科長、教職員とともに、課程博士489名、論文博士91名のみなさんに、また、参列されたご家族に、およろこび申し上げます。
みなさんの学位論文が、それぞれに社会に貢献して、関連の分野の研究成果の蓄積となり、学問の進展につながって行くことでしょう。京都大学には、設立以来、100年を超える大学の歴史の中で、基礎研究の成果が蓄積されています。同時にその蓄積をもとにして、あらたな研究とそれを進めるための人材の養成が行われています。
20世紀までの科学や技術の急激な発達に基づく物質文明の進化が、豊かな社会を築くと同時に、人類の歴史に不幸な一面も書き加えてきました。今、私たちは、蓄積した合成物質をいかに資源に戻して再利用するかを考え、壊れた川の環境を自然に戻す方法を考え、木材を永く活かすための町のデザインを考えています。
今、例えば、生命科学が急速な発展を見せていますが、その発展の向こうに、漠然とした不安を抱いている人も多いと思います。人類の福祉に貢献する方向へ、生命科学を中心とした新しい知の蓄積を生み出すのも、この京都大学の大きな使命であると思います。
本日、博士学位を授与された中で、生命科学の分野と、社会健康医学の分野の博士学位は、京都大学として初めて授与したものであります。
京都大学生命科学研究科が設立されたのは、1999年4月でした。研究科長の稲葉 カヨ先生は、生命科学研究科の設立と歩みを解説した中で、「21世紀に入り生命現象を遺伝子・分子・細胞のレベルに加え個体のレベルにおいても実証する生命科学が新しい段階へと進みつつあります。京都大学ではこのような流れを見越して1999年に理学、農学、薬学、医学の研究グループを結集して内外の大きな期待の中で我が国において初めての生命科学研究科が発足しました。」と述べておられます。
その設立にいささかの関与をした私も、今年の学位論文に関心を持っており、いくつかの審査報告を拝見しました。先端の研究は細分化していて、専門の異なる分野の博士論文は、なかなか理解できないものですが、それでもつい引き込まれて読むものが、かならずあります。その例を紹介します。
小川 聡さんの論文題目は「線虫の微小管構築の制御に必要な遺伝子の解析」という論文で、主査は西田 栄介教授です。細胞骨格は、細胞の運動や細胞の形成あるいは保持に関わっています。レーザー顕微鏡の像で見ると、核から放射状にのびる繊維が見られ、一つの細胞が小さな宇宙のように見えるのです。
微小管は、あらゆる生物に普遍的に存在し、生命現象の制御を担うものです。この論文は、線虫の微小管制御に関わると考えられる遺伝子ファミリーの解析を行ったものです。微小管の性質や構造は、初期発生の過程において劇的に変化し、また、正確に制御されているそうですが、その制御機構は十分に解明されてはいないのです。遺伝子ファミリーが、普遍的に、微小管制御に関与することを示す成果は、きわめて興味深いものであり、細胞生物学、発生生物学など、広い分野への貢献が期待されものであります。
馬場 真里さんの論文は「共生窒素固定根粒の老化に関する研究—インゲン根粒菌により形成されたミヤコグサ早期老化根粒をモデルとして—」というもので、主査は泉井 桂(いずい かつら)教授です。
マメ科植物は、根粒と呼ばれる特殊な器官に根粒菌を棲まわせ、共生的に窒素固定を行わせる能力を持っています。さらに、通常では、お互いに厳密に定まった相手とのみ共生が成立することが知られています。人類が膨大な化石エネルギーを使って化学合成した窒素肥料を農地に投入しているのに対して、このマメ科植物と根粒菌との共生窒素固定は、クリーンな太陽エネルギーに基づいているという点でも、この研究は非常に重要です。この論文は、インゲン根粒菌によってミヤコグサが根粒を形成するか否かという初歩的な実験を手始めに、根粒老化に関する独自の研究を展開してまとめられました。マメ科植物の根粒老化に関する分子的な解析例は極めて乏しく、この研究の成果はたいへん重要です。
京都大学情報学研究科は、生命科学より1年早く、1998年4月に設置され、今日を含めて、すでに175人に博士学位を授与しました。21世紀の高度情報化社会の学術基盤を形成し、人材を養成する使命を担って設置されました。情報という概念は、物質文明の極度に発達した社会で生まれたものであり、コンピュータとネットワークの発達に支えられたものです。人類の知的活動を支える重要な道具として、情報技術が、これからの世界で活用されていかなければなりません。
情報学の分野の学位論文の中に、故上林 彌彦教授が主査を務められた二つの論文があります。
その一人、ソムチァイ・チャットウィチェンチァイさんの論文は「XML文書のアクセス制御ポリシーの変換に関する研究」という題目です。XMLは人間にも分かりやすくコンピュータも扱える文書表現として広く使われています。この論文は、異なる書式のXML文書を利用している組織間の情報交換で生じる問題を解決するために有効なアルゴリズムを提案した点で、学術的価値の高いものであると評価されました。提案されたアルゴリズムは、電子商取引、電子政府、医療分野など、社会情報流通基盤整備にとって不可欠なもので、学術的にも実用性の上でも有意義なものです。
もう一人の井出 明さんの論文題目は、「高度情報化社会における適正な情報の流通について」であります。高度情報化社会の諸問題を、情報流通の法的な側面という観点から考察した論文であり、最近の高度情報化社会の様相の変化を記述するとともに、流通している情報の内容的な適切性と、流通の制御システムの妥当性を考え、情報を受容する権利を、「知る権利」を中心とした人権としてとらえています。すべての情報の価値は同じではないということを、数理モデルによる解析で示し、ある特定のサイトに、突然人気が集中する様子が、マスター方程式を用いたコンピューターシミュレーションによって解析されています。情報学と法学という二つの領域に橋渡しをする境界領域で、独創性の高い研究の成果です。
同じ情報学の分野で、木村 玲欧さんの論文、「都市地震災害を事例とした災害過程における被災者行動の解明と被害想定手法の開発」というタイトルにも、私はたいへん興味を持ちました。主査は、林 春男教授です。従来の防災研究では、外力の理解と被害抑止策に焦点が向いていますが、この研究の成果は、地方自治体の事前対策における避難者数推定や避難所運営計画の検討などに応用できるものであり、行政の災害対応能力の向上につながるものです。
また、本日の午前に行われた修士学位授与式では、今年初めて地球環境学舎の修士学位が授与されましたが、地球環境の課題は、この地球環境学舎だけの課題ではなく、全学的な課題であるといえます。
博士(農学)の学位を得た、コンキャット・キチワタナウォンさんの論文は「タイ国アオウミガメの生態と保護に関する研究」で、主査は田中 克教授です。ウミガメ類は現在生息頭数が減少し、すべての種について絶滅が危惧されており、その生態の解明が急がれています。この論文は、東南アジア海域を回遊するアオウミガメの回遊経路と海草群落との関係を解明しました。ウミガメ類はすべて広範囲に回遊するため、多くの国による総合的な保護対策が重要であることを指摘し、研究結果をもとに、回遊経路に沿った国々での共同研究による保護対策を具体的に提案しました。
今、世界は、物質とエネルギーを消費する時代から、生命や情報や環境を考える時代へと変化しています。人口問題とともに食料や水の不足が予測されています。人口の減少を他国に先駆けて経験しようとしている日本で、世界をリードする研究を目指して、博士学位を授与されたみなさんが、さまざまな分野で、情報を正しく活用し、質の高い情報を生産する研究者として活躍されることでしょう。
みなさんはこれから京都大学博士と呼ばれます。この学位はきわめてレベルの高い学位であります。これまで、学位を取得するため、ともすれば専門の分野の中で深く究めることに、みなさんは主眼を置いてきたかもしれません。これからは広い視野を持つことを同時に心がけて研究を続けてください。
人文科学や社会科学の分野からは、自然科学や技術の分野の急激な進展にいつも関心を持ち、自然科学からは社会の動きにも敏感に目を向けるということが必要です。京都大学の自由な学風は、そのようなことのためにも有利であろうと思いますが、その京都大学の長所にも、また短所にも、もう一度目を向けて、後進のためにご意見を下さるようお願いします。
21世紀を希望あふれる創造の時代として、人と地球が共存できるように、豊かで持続可能な社会の維持に向かって、みなさんが活躍されることを祈ります。本日、博士学位を得たみなさんが、明日からまた新たな挑戦を始められることを期待して、私の式辞といたします。
博士学位、まことにおめでとうございます。