卒業式 式辞 (2004年3月24日)

尾池 和夫

今日、卒業式を迎えられた、2,913名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。先生方に、ご家族の方々に、あるいは友人に祝福されて卒業式を迎えたことと思います。参列していただいた井村前総長、名誉教授、副学長、学部長の先生方や教職員とともに、みなさんの門出を、心からお祝いしたいと思います。

今日限り社会に出て働く方々、あるいは進学して研究者の道を目指す方たち、さまざまな進路がみなさんの前にあることでしょう。いずれにしても、4年間あるいはそれ以上の年月を過ごしたこの京都大学が、明日からは、みなさんの母校になります。今日、大学の門を出たとき、少しだけ時間を作って、みなさんが学んだ大学を振り返って見てください。そのときの感慨が、いつまでも記憶に残ることと思います。

卒業した後にも、多くの試練が待っていることと思いますが、そのときには大学で学習したときの先生や先輩や友人との議論を思い出してください。きっとそこからまた新しい展開が得られることと思います。そのときのためには、同窓会に参加し、母校のことを思い出し、後進を暖かく見守る卒業生であっていただきたいと思います。みなさんが母校を訪れるときのために、この京都大学のキャンパスを、しっかりと維持していきたいと思います。

いうまでもなく、大学は知を蓄積し、発展させていく場所です。みなさんはその大学で得た知を社会で活用していくことになるでしょうが、知だけではその活動がうまくできないという場面に出会うこともあるでしょう。しかし、どんな場合であっても、知だけは忘れないということが大切です。人生には、ときとして予想も出来ない事態が発生したり、社会で激変が起ったりすることもあります。そのような場面に出会ったときにも、みなさんの京都大学での学習や、課外活動の経験が、その威力を発揮することになるはずです。

卒業式にあたり、私が、みなさんに申し上げたいことがあります。

第1は文化を大切にするということであります。

100年ほど前、京都帝国大学の初めての卒業式は、1900年(明治33年)7月14日に行われました。土木工学の18名、機械工学の11名、計29名の卒業生に対して、文部大臣も列席しておりました。その卒業証書授与式における木下 廣次総長の式辞では、「諸般の設備未だ其の半に達せず、学芸の教授に於て不便を感ぜしこと頗る多かりしに係わらず今日茲に第一回の卒業生を出すにいたりしものは実に教官諸君の辛苦経営創立の難業に処して殉々たる誘掖深く其のよろしきを得たるの結果に外ならず」と、労を謝しており、さらに、「本学諸般の経営は之を未来に待つべきもの多しと雖も本学が其の学生を教導するに於て要すべき主旨方針に関しては始めより一定して変することなし」と述べています。このように、大学の経営ということは、今話題になり始めたのではなく、第1回の卒業式から言われているのであります。

この4月から法律によって国立大学法人京都大学が設置され、その法人が京都大学を設置することになります。国家財政の危機に際して、大学がなんら関与しないということは、もちろんできません。むしろ大学の蓄えた知を活用して、その危機を乗り越えるために貢献することが必要であります。しかしながら、十分な議論のないまま、急激な変化を強制するような改革は、大学には馴染みません。国が栄えたとき、そこには必ず優れた大学があったと言われるように、大学はその国の文化を支える聖域であります。その聖域を区別しないような改革は、文化を支える大学をだめにしてしまうおそれがあります。

大学は文化を守る役割を持っています。ときの政治がそのことを忘れていても、京都大学は文化を守り伝える役割を果たします。そのためには経費が必要であり、人材を確保していなければなりません。みなさんには、母校を精神的にも、また財政的にも支援する社会人に育ってほしいと願っています。

第2は、人に優しい人であるということです。

人の話を聞くということが大切です。今日ご列席の副学長である、東山先生の著書に、「われわれはしゃべりすぎたという反省はよくしますが、聞きすぎたという反省はほとんどしません。」という文が出てきます。これは、情報の発信者と受信者を比べたとき、情報を発信した方が情報をコントロールしているように、見えるかもしれませんが、実は受信する方こそ、情報を本当にコントロールしているのだという原理から来る文であります。人の話をよく聞いて、自分で判断して人に接することが大切です。このことは人に優しいという、他人を思いやることに通じると思います。

今、日本の社会では、リストラとか、削減とか、効率化というような用語が盛んに聞こえます。いずれも経営者の論理に用いられる用語です。それが日本の国の未来に役に立つように錯覚してしまうほど、マスメディアでも盛んにこれらの用語が登場します。しかし、統計が示すように、先進国の中で、日本は公務員の少ない国であり、国民総生産に比べて教育費の支出が目立って少ない国であります。世界で最も早い時期に人口減少に向かう国と言われる日本では、新しい雇用の創出というような、労働者あるいは市民の側の論理で語られる改革が、今もっとも重要であると思います。京都大学を卒業するみなさんも、どんな場所で、どんな仕事をするばあいにも、どうか、かならず市民の側に立って物事を考え、市民の側に立った仕事をする人であってほしいと思います。

人を大切にするということは、平和を愛するということにもつながり、また差別のない社会を作り上げるという考えにもつながります。

京都大学に、民受連と呼ばれる団体があります。その民受連を中心とする運動によって、日本にある在日外国人の卒業生に大学入学資格が認められました。この運動は、井村 元総長と学生の話し合いがきっかけとなったものであります。そして長尾前総長のときに、同和人権問題委員会の山崎委員長がとりまとめた報告がもとになって、ようやく広く受験資格が認められることになり、その制度のもとで、合格者を出すことができました。

ちなみに京都大学では、1946年(昭和21年)5月15日の入学宣誓式における鳥養 利三郎総長が、その式辞で、「本年初めて女子学徒を加えたのでありますが、私は女学生諸子の学力、人格に信頼し、何等差別的取扱、特別待遇を考慮しない考えであります。」と述べています。

第3は、法を守るということです。

この言葉には二つの意味があります。一つは、法を破らない、法律を最低限の規範として暮らすということですが、もう一つの意味は、優れた法が悪い法へ書き換えられないように、法そのものを守るということであります。

法律にはその国の、ときには大きな犠牲の積み重ねによって生まれた歴史があります。戦争の反省から生まれた日本国憲法や、その延長にある教育基本法のように、失われた内外の尊い市民の命と引き替えに生まれた法があります。その精神を護る人であってほしいと思います。

国際化という言葉がたびたび聞かれます。真の国際化は、異文化の交流によって相互に理解を深め、忍耐強く会話を続けていくことによって、時間をかけて得られるものであります。言葉の上では国際化と言いながら、現実の世界では、強大な力を持つ特定の国の論理で戦争が行われ、それに協力していくことが国際協力というように呼ばれる場合があります。地球上のどこかで常に殺戮が行われ、幼い命が失われている現実があります。京都大学で学んだみなさんが、真の国際化を志し、いつまでも真の平和を愛する人であってほしいと、私は切に願うものであります。

また、教育基本法の第10条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなけらばならない。」とあります。この精神は、大学の自治を保証するものであり、ときの政権から教育の独立を保証するものです。このような歴史の重みを持つ法を改変しようとする動きには、注意深く目を開いていなければならないと思います。

その他にも、社会に出るみなさんに申し上げたいことは、いろいろありますが、要は、平和を大切にし、地球を大事にし、人を大切にする人であってほしいと思います。法を守り、社会に貢献し、人類の福祉に貢献する人であってほしいということです。また、科学に興味を失わず、学問への志を持ち続け、自らの体と脳と心の健康に気を配りながら、これからの人生を大切に生きていってほしいと願っています。

芸術に、文学に、人文科学に、社会科学に、自然科学に、人類の文化や文明のあらゆる分野の歴史に、これから新しい内容を加えていくのは、今日ここで京都大学の卒業式を迎えられたみなさんであります。みなさんが、そこに目を見張るようなすばらしい内容の歴史をたっぷりと書き加えてくださることを願って、私の式辞といたします。

ご卒業、おめでとうございます。