変わりゆく大学

(国立大学協会会報第174号に巻頭エッセーとして掲載)

 

1.国際化の時代

 最近「魅力のある大学作り」という言葉があちこちで語られるようになって来た。少子化の時代となって来て、良い学生を引きつける努力をしなければ、下手をすると定員割れをおこしかねないのが1つの理由であろう。もう1つの理由は大学の財政にある。優秀な先生を多く集めて、研究業績をあげてもらうことによって、学生に魅力を感じさせたいということがある。また、国からの研究費を沢山とって来てもらって大学の収入を増やすとともに、産業界との共同研究を行い、産業界・社会からの寄付などを受けて、大学を豊かにしてゆくことが大切となって来ているからである。

 国際化の時代となって、学生は外国の大学に留学することも容易になって来たし、有力な外国の大学が遠隔講義によって日本の学生を引きつけるようになって来ている。学生は日本にいながら外国の大学の単位をとり、卒業できる時代である。シンガポール国立大学は米国MITの講義をインターネットで全面的に受け入れて、学生にMITのレベルの教育をしはじめた。MITは近くほとんど総ての講義内容をインターネットで全世界に無料で公開すると言っている。ヨーロッパはエラスムス計画が進んでおり、他国の大学に行って勉強することも多くなり、代表的な大学の場合20%程度が他国の学生であることが普通である。イギリスの幾つかの大学はアジアからの学生を積極的に受け入れ、その授業料が大学の収入の重要な一部となりつつあるという。欧米の幾つかの大学は東京に事務所をもうけ、留学生への窓口となるとともに、日本の産業界に深く食い込む活動をする時代となっている。質の高い教員を集め、優秀な学生と資金を世界中から集め、大学を活性化しながら大学財政をよくし、それによって大学をますます魅力のあるものとする努力が広く行われるようになって来た。

 

2.大学の規模

 どのような大学が魅力のある大学であるか、という問を発したとき、大学の規模が1つの問題となる。総合大学で、どのような学部も学科もあって、何でも学べるという環境が1つの指標であることは確かである。学生が自由に自分の興味のおもむくところを学習できるという利点がある。しかし大学があまりにも大きくなりすぎると、種々の事柄に対する決定がしにくくなり、時間がかかり妥協が多くなる結果、非効率となり特色を出しにくくなる。単に2つ以上の大学を組織上1つにまとめるだけで、キャンパスは従来通り分散したままで、教員その他の人達もほとんどが元のままでは、総合大学としての効果を現わさず、かえって目的などが矛盾したりして、その調整に不必要なエネルギーを割くということになりかねない。これは学長のリーダーシップをいかに強くしても簡単に解決することのできない問題である。大学全体としての一体性を明確にするためには長い歴史とお互いの努力が必要なのである。

 市川惇信氏がその論文(雑誌「科学」2001年10月号:知識拡大競争で問われる大学人の知識)で述べておられように、カリフォルニア工科大学の行き方は単科大学や小規模大学にとって参考になる。「大学の規模を大きくすると、教員の間の相互触発が薄れ、人類がなしえる最も野心的なことに挑戦する場を用意する、という本学の理念の実現に支障がでる」という考え方で、カリフォルニア工科大学は現在でも学部学生数900人、大学院生数1,100人、教員280人、ポストドクトラル・フェロー400人という小規模大学であるが、ノーベル賞学者を何人もかかえており、その教育の質と研究業績の高さは定評がある。

 これからの大学は規模よりも質の高さを教育・研究の両面で追求する時代になるし、事務を含んだ大学全体の経営の効率の良さが厳しく求められるので、大規模であることはかえって良くないということになりかねない。日本の国立大学の中でもいわゆる旧帝大系の大学の教員対学生比は非常に小さい。新制の大学の場合にその比率は2倍くらいとなるが、それでも欧米の代表的な大学の教員対学生比とくらべるとけっして悪くはない。それにもかかわらず日本の大学の教員は雑用に忙しく、授業の準備に十分な時間がさけず、また休講などもあるといった状況である。事務組織の人数も比率的に非常に大きいにもかかわらず、常に人手不足で非常勤を大勢やとっている。こういった状況がなぜ起こっているのかを徹底的に解明して、合理的な組織運営形態をとる努力をしなければ、国立大学は法人化されればすぐに経済的に成り立たなくなってしまうだろう。

 

3.学生の環境

 国立大学の場合、古い大学ほど教室や研究室、その他の施設が劣悪である。新しい大学の場合でも欧米の大学に比べると大変見劣りがする。こういったことは学生の勉学意欲に直接間接に影響を与える大きな問題である。これからの学生には、国際的視野のもとに、諸外国の人達と対等に議論できる自信と、しっかりした人格を持たせるようにしなければならないが、そのためには学生のキャンパスライフの環境を良くすることが最も大切なことである。これはまた諸外国から留学生を集めるためにも必要なことで、留学生のためには特に宿舎を十分に用意するとともに、奨学金をできるだけ多くの学生に与えられるようにしなければならない。

 日本がこれからの国際社会で一流国として活躍するためには、日本の若い学生を海外に行かせることと、留学生を我が国の大学で学ばせることが重要である。そのためにも、これからの大学の講義の多くは英語で行う必要がでてくるし、外国人教員ももっと積極的に雇用しなければならないだろう。

 

4.教員の環境

 教員の研究活動も完全に国際的な場で行われるようにしなければならない。たとえば日本国内だけの学会、研究発表会というのでなく、日本で行う場合も常に国際的な学会、会議とし、国際的な環境の中で厳しい審査を経て論文採択され、議論がなされるようにすることが必要であろう。学生に国際的な視野をもたせ、国際的な感覚・環境の下で競争する意識をもたせるためにも、教員がそういった世界の中に居るということが前提となるからである。

 教員は自分の研究分野や関連分野が世界的にどのような状況にあるか、誰がどのような発想法でどのような研究をしているかをよく把握しているべきだし、有力な研究者には直接会って意見をたたかわせることは当然である。常に相手を知り、相手と競争すると共に協調し、協力し、その研究分野を強力に発展させてゆく原動力となるべきである。一方、自分の研究がユニークで競争相手がいないとすれば、それは大変幸福である。自分の研究の魅力を他人に認識させ、同調しまた反発する研究者を多く作り、世界的に大きな学問分野に育てあげてゆくことができるからである。

 これから法人化されてゆく大学という立場から考えると、英国で起こっているような優秀な教員や研究者の取り合いといった現象が日本でも起こる可能性があるだろう。優れた研究者は大学を有名にしてくれ、良い学生を集める力となる。また大きな研究費を国からも企業等からも集めてくる力があるから、良いポストドクトラル・フェローを沢山集められ、学生にとっても刺激になるほかに、オーバヘッドの資金が大学に入ってくることになって、大学の基盤整備を含め、大学を強くしてゆくのに大きく貢献するからである。

 こういったことは直接間接に教員の採用方法、教員の給料の設定の仕方、学科長や学部長の選び方といったことに影響を与えてゆくだろう。ある1つの有力大学がこのような方法に踏み切れば、その他の大学もそうせざるをえなくなるから、思ったよりも早くそのような状況が日本の大学にも出現するかもしれない。それが長い眼で見て、日本という文化と伝統に特色のある国にとって良いことであるかどうかは分からないが、大学という市場が国際化し、種々の国境的な条件が低くなればなるほど、そうなってゆかざるをえない運命にあるように見える。企業の国際化の経緯とかなり類似してゆく可能性がある。

 

5.社会との関係

 大学の研究成果を社会に還元すべきであるという声は大きい。これには国民の税金で国立大学が賄われているからであるといった義務論、精神論といったニュアンスが大きい。しかし、これを最も積極的にやっている米国、あるいは最近盛んにやり始めた中国の代表的な大学などでは、そのような精神論ではなく全く経済的な立場から物を見ているということを知る必要がある。即ち研究成果を社会に還元することによって、個々の研究者や大学が大きな収入を得ようとしており、彼等のやっているこの種の活動の仕方、迫力は、義務としてやろうとしている我々のものとは全くちがうのである。産業界と直接結びつかない基礎的研究や人文・社会系の研究であっても、社会にアピールし広く認められることによって研究費がとりやすくなるし、メディアにも登場することになって、それが研究者や大学の収入増につながってゆく面もあって、精神論ではない側面を多分にもっている。

 創立して10年~20年程度の非常に若い大学で世界的にも明確な地位を占めつつある韓国のポーハン科学技術大学や香港の香港科技大学などは、その背後に大きな寄附があったこともあるが、国際的に活躍している教員・研究者を高い給料で獲得し、努力をすれば収入が増えるという環境を積極的に採用することによって、国際的な評価を得ることになったという見方ができる。もっとも両大学とも科学技術に特化した大学だからこそ、目的が明確で、経済界や産業界の強力な支援が比較的容易に得られているということもできる。もしそのような大学を日本でも作ろうとするのであれば、下手な統合などを考えずに、小じんまりした単科大学で徹底してゆくという方向も大切であろう。

 

6.おわりに

 大学という言葉によって旧い世代の我々がイメージするのは、ヨーロッパの伝統的な大学であることが多いが、米国のハーバード大学だけでなく、ケンブリッジ大学においても、大学当局は強烈な企業経営的意識をもって大学全体を運営して来ているという事実はあまり知られていない。「昔は大学は教会のまわりに作られたが、現在は産業界・経済界のまわりに作られるのだ」とロンドン大学・インペリアルカレッジの学長が断言しているが、大学のイメージはそのように変わって行きつつあることは事実であろう。

 昔は学問が宗教や国王の周囲で作られ、それが社会に流れてゆくという、いわばトップダウン的な構造であったが、今日では社会の要求によって学問や研究開発をし、また人材育成をするという逆方向の流れの中にある。これはuniversity for society ではなく、university in society の時代であると言われていることでもある。これを学問の堕落といえば言えるかもしれないが、現実はそうなのであって、我々古い世代の多くには、その現実を認めたくないという潜在意識があって、世界の現実を冷静に直視することをしていないのではないだろうか。

 アメリカでは、大学においても研究者においても契約という考え方が徹底している。教員は、学生の教育と研究における自分の能力から、大学と給料の額を契約する。そして、それ以上の実績をあげた場合には、もっと高い給料を要求し、大学が応じてくれなければ、もっと良い条件の大学へ移るという割り切った考え方がある。学長自身も、契約的なセンスで自分の大学をどのように良くするかを理事会に説明し、それを実現すべく努力をする。そして、それ以上の実績が実現できたような優れた学長は、もっと良い大学にもっと良い給料で呼ばれて行くといった、職業としての学長職といった色彩が濃厚である。大学自体も国や社会に対して大学としての教育・研究義務をはたすといった考え方で活動していると見ることもできるだろう。

 このような契約という、いわばドライな考え方は、全てを明解にし、軽快にし、活動的にする。そして失敗すれば失職し、潰れるというわけである。「学問の自由」はこのような厳しい契約という関係を裏にもっているのである。このような考え方をするならば、日本の高等教育と研究が世界一流となっているかどうかについての責任の多くは国が持つべきものということになるだろう。国立大学の場合、契約の主体、全体を動かしている責任者は国であり、結果の責任をとることになるのは当然だからである。ただ現在の日本は、我が国の文化や思想などをどの程度尊重し評価し、高等教育機関の発展に対する責任を自覚しているかははなはだ疑問である。したがって、このような契約の考え方をとるためには、もっと懐の深い社会に成長することが必要であろう。

 筆者自身は以上に記述したような世界をかならずしも全面的に肯定する人間ではないし、また日本という国の現在と近い将来を考えても、簡単に肯定できるわけではない。しかし、少なくとも世界の有力な諸大学の活動ぶりを冷静にながめてみると、このような側面が色濃くあるということを否定することはできない。今日国立大学の法人化問題が難しい段階に来ているが、今後法人化の姿を詳しく画いてゆく上において、このような世界があり、見方があるということを、我々はどう受けとめるべきかをよく考えながら、直面している問題に対処してゆくことが必要ではないだろうか。