平成13年3月23日博士学位授与式

博士学位授与式における総長のことば

平成13年3月23日

総長 長尾 真

 本日ここに京都大学博士の学位を得られました課程博士400人、論文博士101人の皆さん、おめでとうございます。ご列席の各研究科長とともに心からお慶びいたします。

 さて学術は20世紀の百年の間に目ざましい発展をして来ました。そして皆さんの努力によって、また一歩進められたわけであります。このようにして、将来とも学術はたえまなく発展していくことはまちがいありません。しかし一方では、その発展を妨げる要素も出て来つつあります。

 地球上の資源は有限であることがますます明確になって来ました。文明が進展すればするほど、資源はどんどんと消費され、そして廃棄物がそれ以上の割合いで増えており、これが一つの大きな問題となっております。国内に廃棄場所を見つけることは困難となり、外国にまでこれを持ち出し、他国に大きな迷惑をかけ、多くの問題を引き起こしていることは、新聞やテレビなどでも報道されているところであります。

 この問題を解決するためには、どうしても資源のリサイクルという概念を導入し、一度使った資源を、部品交換などのリニューアルによってまた使うとか、他の製品のための資源として再利用するという道を開かねばなりません。こういったことを促進するために、特定家庭用機器再商品化法(略称、家電リサイクル法)が制定され、これから本格的にリサイクルを実施しようとしております。しかし一般的なリサイクル、あるいは広く資源の本格的な再利用の研究は始まったばかりですし、まずなんといっても資源の浪費をしないように、我々全てが努力しなければなりません。

 この、物事を循環させて利用するという考え方は非常に大切であります。海の水は蒸発し雨となって大地をうるおし、また海にもどるという循環をしております。生物にもいろいろな意味で循環があります。春に出た草花は実をみのらせ、これが大地にもどってまた春になれば芽ばえるわけであります。

 物事の無限の発展のためには、このようなサイクルをえがく構造が内部に存在しなければならないことは、ヘーゲルのいう弁証法的発展によらなくても当然のことでありますが、これは数学的にも明らかにされております。たとえば自然数は無限にありますが、これはある数に1をたすということの繰り返しによって全てをおおうという、繰り返しの構造によって実現されます。このようにみると、無限の発展のように見えるものも、それは表面的なことであり、それを支える基本は有限のものであると考えることができるのであります。

 したがって、ヨーロッパ近代に確立した進歩発展、過去より未来へ直線的に文明が発展し、歴史が作られていくという概念はかならずしも唯一の物の見方や概念ではなく、むしろ東洋的な輪廻の思想の方が地球上の現象の背後にある物事の本質をつかんでいるかもしれないのであります。特に今日地球上の資源が有限であるという観点からすれば、全てにおいての循環の概念を明確にもち、これを大切にしなければならないといえるでしょう。そうでなければ永久の生存ということはありえません。これまでの西洋の進歩の概念では行きづまると最近いろいろな分野で言われ、東洋的な考え方の再評価がされ始めていますが、それは理由のあることであります。

 直線的発展という考え方や輪廻的概念で物事をとらえる考え方のほかに、物事は衰退していくのだという考え方もあります。万葉集の世界は我々日本人の心の古里であり、それ以後今日までの日本精神はおおらかさを失い、枝葉末梢的になって来ている、古代日本の精神に立ち帰るべきだという本居宣長の主張はその例でありましょう。全く同じようなことは、古代ギリシヤの思想へもどれという西欧における何度もの反省運動といったことにもあります。一般にエポックメーキングなことの後はほとんど全てにおいて、それの発展とは言っても実はそれの具体化や解釈のし直しなどの方向のもので、進歩というよりは退歩といったような現象が指摘されているわけであります。人間の成長をながめても、20歳前後をピークにしてその後は徐々に精神も肉体もおとろえていくことをさけることはできません。日本は何年か前に世界の経済大国として一瞬間のピークを達成しましたが、その後今日まで衰退の一方であり、はたして再び立ちなおれるのかどうかが問われています。

 このようないろいろな考え方がある中で、それでも時間だけは一直線に過去から未来に向かって動いて行っているとだれもが考えています。しかしこれにも違った考え方がありえます。たとえば、未来が我々のところにやってくる、即ち未知の世界が現実となって現れるのだという考え方もあるわけです。

 もっと違った考え方をするのは、鎌倉時代前期の禅僧で日本最初の哲学者といってもよい道元でありましょう。道元は「時は飛去するとのみ解念すべからず」といっています。時間はどんどん過去へ向かって飛び去っていくのではない、この世界にある全ての存在は、つらなりながら時をなしているのである、存在がすなわち時間だ、といいます。だから眼前に立つ松も時であり、風にざわめく竹も時であると観ずるのであります。過ぎ去ったものはない、全てが眼前に現在として展開しているのであるといいます。

 このようにいろいろな物の見方がある中で、これからの世紀は、何が社会の主たる価値観になるのだろうかという問題は、非常に興味のあることであります。よく知・情・意ということが言われます。この三つの概念がどうしてこの順に並べられたのか不思議な感じがします。しかし西洋の歴史も日本の歴史も、よく考えるとこの知情意の順番で社会の価値観が入れかわって輪廻転生して来ているように見えます。たとえばギリシア・ローマ時代は意から知へ展開して行った時代、そしてキリスト教という宗教の支配した中世をへて、再び意志の力が支配したルネッサンス時代というように、歴史は変遷して来たと考えられましょう。そしてそれ以後現代までは知の時代であり、科学技術が目ざましい発展をしたわけであります。

 日本の歴史についても、奈良、平安、鎌倉...と、現代に至るまで、そのような概念的な当てはめをすることができるでしょう。いずれにしても現代が知の時代であることを疑うことはできません。しかし時代は徐々に再び、情の時代、すなわち心の時代に向かいつつあるのではないでしょうか。人々は科学技術に驚きの声をあげ、その恩恵を十分に受けながらも、それでは満されない心の持主が増えつつあると感じられもするのであります。

 いろいろなことを羅列的に申し述べて来ましたが、これは、物事にはいろいろな見方があること、自分が当然と思っている考え方も、他の人はかならずしもそうは思っていないこと、またこういった多くの考え方の中で自分は何を信じるのかということが大切であり、これを皆さんに問いかけたいからであります。こういったことについて、皆さんそれぞれに自分の考え方があるでしょう。博士論文の研究のためには、ある一つの観点から物事を深く追求することが必要だったでしょう。しかし、博士学位を取得したいま、皆さんはもっと広い立場から、ここに述べましたような種々の考え方について理解を深めるとともに、世界が現在直面している多くの深刻な課題に対して、自分はどのように判断し、立ち向かっていこうとするのかということをよく考えていただきたいのであります。特に物事が、直線的に過去から未来に向かって進歩発展していくといった単純で楽観的な考え方では、これからの世紀を生きていくことは出来ないであろうことを考えていただきたいのであります。

 皆さんのこれからのご活躍を期待して、私のお祝いの言葉といたします。