平成12年9月28日学位授与式式辞

共存の思想
(平成12年9月28日博士学位授与式式辞)

長尾 真

 今回京都大学博士の学位を得られました、課程博士67名、論文博士65名の皆様、まことにおめでとうございます。ご列席の各研究科長とともに心からおよろこび申し上げます。

 さて21世紀の幕明けがもうすぐという時になりましたが、時代は大きく転回してゆこうとしております。20世紀をふり返り21世紀を展望することが必要であります。この時代の流れの中で将来をどう見るかということが、皆さんのこれからの新しい活動にとって欠くことのできない基盤となるからであります。

 20世紀は戦争の時代であったとか、地球規模の時代であったとか、いろいろと言われていますが、科学技術の時代であったということもできるでしょう。この科学技術の影響力はあまりにも強力で、社会や地球を根本的に変え、豊かな社会を作るとともに種々の問題を引きおこして来ました。したがって、このような問題を解決しようとすれば、科学技術とは何なのか、その本質は何なのかを問わねばなりません。この問いに答えるためには、科学技術を生み出して来たギリシア以来の西洋の思想と精神がどのようなものであったかを知る必要があるでしょう。これを知ることによって、はじめて科学技術の可能性と限界とが明らかになると考えられるからであります。

 西洋の学問はプラトンによってはじめて確立されたといえます。その論理的思考法はアリストテレスによって引継がれ、経験的立場をも加味し、自然界の観察にも適用されたところに科学技術の源流を認めることができます。そこに存在する人間理性に対する信頼はデカルトによって確立され、カントに至って完成されました。ヘーゲルはこれに歴史的、時間的視点を加えて世界を統一的に解釈しようとしました。このような人間理解の立場は、理性こそ人間のみが持つものであり、人間を人間たらしめているものであるという考え方でありました。これは明らかに今日の自然科学的態度であります。

 このような人間理解に異をとなえた人は多くいます。パスカルはその最初の1人といってよいでしょう。人間理性のすばらしさを信じつつも、その限界を鋭く指摘し、人間の魂の優位性を考えた人でありました。ほかにもキルケゴールなどはその典型的な人であると思います。キルケゴールは理性のみで魂の存在を無視するカントやヘーゲルなどの人間不在の思考にはあきたらず、普遍的理性ではおおいきれない存在としての人間の大切さを主張した人でありました。この考え方はハイデガーを経て、実存主義として今日に至っております。人間の心の無意識の世界を発見したのはフロイトであります。フロイトはこの無意識の世界を病理学的かつ心理学的立場から解明し、人間精神がいかにこの無意識の世界に影響されているかを明らかにしました。カント、ヘーゲル以後のもう1つの大きな流れは、理性的思考を人間頭脳の世界だけにとどめず、社会における人間に広げ、しかも思索から行動へ踏み出す方向に行ったマルクスであり、その後の共産主義運動であったといえるでしょう。

 カント、ヘーゲル以後のさらにもう1つの方向は、言語論的転回(linguistic turn)と言われているもので、人間の精神活動への考察を、意識の分析から言語の分析へと転換したのであります。これはフレーゲやラッセルの記号論理学から始まり、ウィトゲンシュタインによって、これが人間を語る重要な対象であることが明確化され、オースチンを経て今日に至る大きな流れを形成しております。これは言語と言語使用を深く分析することによって、人間精神の活動を明らかにしてゆくという立場でありますが、これからのグローバル化された世界における多様な民族・社会・個人の理解にとって、なお不可欠のものであると考えます。

 このような西洋哲学・思想の根底に流れているものは、ひとことで言えば人間理性への信奉であり、自覚されている、いないにかかわらず、宇宙の中における人間理性の絶対的優位という考え方でありましょう。このヨーロッパ精神を徹底的に批判したニーチェにおいても、結局は人間意志の絶対性が主張されることになるわけであります。すなわち、それまで神-人間-自然という階層性で考えられていた西洋の宇宙観が人間中心の考え方となり、その中でも特に人間理性への信奉は17世紀以後今日まで、人間をも含む全てのものを客観的対象として扱い、分析することによって、自然科学と技術を発展させて来ました。また逆に、科学技術の目ざましい成果と社会への影響が、ますます人間理性の絶対性を確信させて来たといってよいでしょう。こうして神は死に、自然は人間によって蹂躙され無視されてしまったのであります。

 これに対して、東洋の思想はいかなるものかを検討してみる必要があるでしょう。そこでの特徴は自己は宇宙・自然の中の一員であるという考えかたにあるのではないでしょうか。人間、あるいは自分は他の全てのものと同列にあり、自己に魂があるとすれば他の全ての存在物にも霊が宿っていると観る考え方であります。西洋においてもプラトンやアリストテレス以前には、そのような考え方が一般であったと言われておりますが、日本古来の思想はその色彩が特に強く、自然と人間との共存、共生ということが何らの不自然さもなく、今日にまで引き継がれて来ており、西欧思想に染めあげられた今日の日本人にとっても、いまだに至極当然のように感じられるのであります。

 その根底には、仏教の哲学思想でいう8識のうちの意識、無意識のさらに一段底に位置づけられるアーラヤ識の考え方が潜んでいるのではないでしょうか。これは全ての人間の魂に通底して存在するものであるだけでなく、他の生きとし生ける物、さらには地球上の全ての物の内部に共通して存在する何物かであるという考え方とも見ることができるでしょう。釈迦が入滅なさる時に、釈迦につかえた人々だけでなく、象や蛇、虎など、沢山の生物が集って来て嘆き悲しんだとされていますが、これはそのような何物かが全ての物に通底して存在するという思想の現れでしょう。ユングの普遍的無意識はアーラヤ識に近い考え方ではありますが、人間世界にしか視野が存在しないという点で、西洋思想の限界は越えられていないわけであります。

 共生という考え方は大切であります。共生である以上、自分が大切な存在であれば自分の隣りにいる人達、自分をとりまく事物もまた全て同じく大切なのであります。したがって人が食べたりして消費してしまう物においても、それを大切にし、自分にとって必要最低限度で満足するという考え方ともなります。

 こういった視点、物の考え方は、少なくともデカルト以後の西欧思想にはありません。西欧の自然科学は外界世界を対象とはしていますが、それはあくまでも人間理性の分析的活動の対象として、要素にまでばらばらに解体される生命力のない客体であり、日本人のように、対象をその機能をも含めた生きた総体としてながめ、それが我々と同列の仲間であり、また場合によっては魂をもった我々のあがめるべき対象であるといった物の考え方ではありません。そういった意味で西欧の思想の根底には、人間・自己というものが常に中心的存在としてあり、他は全て自分に対する客観的対象として一段も二段も下に存在するわけであります。人間が自然と感情を共有するといった考え方ではありません。したがって日本人における自然への感情移入と西欧人におけるそれとには大きな隔たりがあると言わざるをえません。自分を空にするということは日本人の持つ特色でありましょう。

 このような東洋、あるいは日本の思想は21世紀において重要になると考えます。西欧思想は巨大な文化を築き、科学技術文明を世界全体に押し広め、世界を豊かにして来ましたが、一方では多くの負の遺産も残して来ました。地球は人間によって搾取され、環境は悪化の一途をたどっています。この問題の解決のためには、科学技術を頼りにせねばならないことは明らかでありますが、ほんとうにそれで解決ができるのかどうかは分りません。我々は、人間が地球上の他の全ての生物、また無生物と適切な形で共生してゆくという覚悟をしなければ、この深刻な問題の真の意味での解決を得ることが難しいことをよく自覚しなければならないのではないでしょうか。すなわち、ここで述べました全ての他の物との共生という東洋的な考え方を全ての人が持ち、その立場で行動することが要請されるのではないでしょうか。

 そういった意味で、21世紀は東洋的思想が広く世界中に認識されるべき時代であり、我々は自信と誇りをもってこれを主張し、全世界の人々に理解させる努力をする必要があるものと考えます。これを言語論的転回になぞらえていえば、アジア的転回(Asiatic turn)といってよい、物の考え方の転回でありましょう。

 ここに述べました議論は非常に乱暴で間違った考えであると、哲学思想史の専門家から指摘されるかもしれませんが、言わんとするところは、絶対的であると思われているかもしれない西欧思想、理性への信仰も、これからの時代にかならずしも妥当なものであるとは言えず、日本人のもつ思想、我々が我々なりに育てて来た考え方も、これからの時代において大きな存在価値を持つ可能性があるのだということを言いたいのであります。21世紀はアジアの世紀であるとすれば、それはこのアジア的転回の意味でであるといいたいのであります。

 今日、博士学位を得られた皆さんは、何を信じ、何を頼りにして行動し、これからの人生を歩んでゆくかということが問われています。時代が変わろうとしております。この機会に、よく物事について考えていただくことを希望いたします。京都大学博士の学位取得、まことにおめでとうございました。