学部入学式における総長のことば
平成12年4月11日
総長 長尾 真
平成12年度京都大学入学式に出席することができた2,913名の皆さん、京都大学入学まことにおめでとうございます。ご列席の元総長、名誉教授の先生方、各学部長はじめ京都大学の全教職員とともに、皆さんの京都大学への入学を心からお喜び申し上げます。また今日まで皆さんを育てあげられましたご列席のご家族や関係者の方々にもお喜び申し上げます。
皆さんを今日から構成員として迎え入れます京都大学は、明治30年、すなわち1897年に新しい学問を創造することを目的として設立され、自ら問い、自ら学ぶということを理想とする教育を今日まで百三年間にわたって行って来ました。「学問の自由」を日本の大学に根づかせるために果たして来た京都大学の歴史は、日本の大学史に大きな足跡を残しているのであります。
物事を根本的に考え、創造を重んじた京都大学の学風から、一方では澤柳事件、滝川事件等の、「学問の自由」を勝ち取るための戦いをしましたし、また一方では自然科学分野で日本人が受けた5人のノーベル賞学者のうち4人までを本学卒業生から出したという輝かしい実績を持っております。数学におけるノーベル賞にあたるフィールズ賞も日本人受賞者3人中の2人は本学の関係者で占められておりますし、他にも多くの方々が国際的によく知られた業績を挙げておられます。また社会の各分野において中心となって活躍する多くの優れた人材を輩出して来ました。このような実績をもつ京都大学で学ぶことによって、諸君も将来の日本、世界に貢献する人になっていただくことを期待いたします。したがって、諸君はこの記念すべき入学式において、これから本当の意味での学問をするのだという決心をしていただきたいと思います。
大学へ入ると諸君は学問を学びます。これは人類が築き上げて来た知識の体系であるとともに、また物事を考える方法を学ぶことでもあります。京都大学では特に後者、すなわち物事を深く根元的に考えるということを重視し、これを学生諸君が学びとってくれることを期待し、また要請するのであります。
入学試験において諸君に課した問題は、よく考えればかならず解ける問題でありましたが、受験生諸君の多くは、始めからそういった問題を解こうとせず、完全に放棄していたようにみえるのは、我々としてはまことに残念であります。京都大学に入って学問をしようと志す学生は、よく考えれば解けるという問題にこそ積極的に挑戦すべきでありましょう。
高校までの勉強はとかく入学試験のための勉強となり、それは暗記によるといったことになりがちですが、これからの諸君の勉強はそういったことでは全く役に立ちません。大学では、物事に対してはいろいろな立場からいろいろな見方が出来ること、論理的に推論することによって、種々の条件から種々の結論を導き出せること、といったことを学びます。解答のない問題、いくつもの解答のあり得る問題といったことに対して、どのように議論を進めることが出来るかといったことも学びます。
以前の大学では知識を授けるということに教育の中心があったといえるかもしれません。しかし今日では膨大な数の本が出版され、インターネットなどでも求める知識は探せばかならずどこかに存在するという状況になって来ております。毎日世界中で起っていることは新聞やテレビで知ることが出来ますし、情報は洪水のごとく我々に押しよせて来ているのであります。したがってこれからの我々は情報や知識を獲得するというよりは、自分にとって不必要な、あるいは有害な情報をいかに拒否するか、排除するかということの方が大切になって来ているともいえるのであります。そのためには物事に対する判断力、善悪に対する鋭い感覚と価値観をもつことが必要となります。
学問や研究の世界についても似たことがいえます。19世紀から20世紀前半までは、各分野において学問の本質的な部分が確立され、学問体系が形成されて来ました。したがって以前は、ある学問分野で読むべき本はどれとどれであるか比較的数少ない重要な本がはっきりしていたのであります。しかし知識や情報のあふれかえっている今日では、誰でも欲しい知識や情報を瞬時に得られるわけで、知っているということに特別な価値を認める時代ではなくなって来ており、そこから新しい知識を作り出すというところにこそ価値があるという時代、すなわち「知価の時代」となって来ております。そういったことから、膨大な量の研究成果が出されるようになって来ていますが、その中には知識や情報を使えばこんなことが出来たとか、こんな結論が得られたとかいった、いわば自分の知的能力をひけらかすだけの、論文のための論文が多くなって来ているのは残念なことであります。そのようにして示された結果が、学問にとって、また社会にとってどんな必然性や意味があるのか全く分からない、知識を単にもて遊ぶといったものが多すぎるのであります。
そういう学問も、あり得るとしても、京都大学においては少なくとも学問の本質的な進歩にかかわること、社会に対して究極的には貢献することになる実質的な研究成果を出して来ており、また今日も日夜そのような学問態度でがんばっているのであります。
知識をもち、これを利用するということは、能力さえあれば、善意から、悪意から、あるいは遊び心からも出来ることであります。すぐれた大学で学び、官庁や会社に入って自分のもつ知識と能力によってどんどん昇進した人が、その知識を用いて犯罪的な行為をしたといったことは、よく新聞などに出ますが、これは知識の利用の仕方が誤っていたというべきなのでしょう。自然科学は価値独立あるいは価値中立であるといわれていますように、知識そのものに問題があるというよりは、知識をどういう方向に利用するかというところに問題があるというべきなのであります。つまり、知識を使う人の意図にこそ最大の問題があり、今日これが社会において厳しく問われているということであります。
それは自分の発言、行動に責任を持つことにつながります。個人の世界における責任はもちろんのこと、組織や社会の枠組の中での自分の地位、役割に対して特に十分な責任感を持たねばなりません。日本においては、組織における責任はしばしば全体の責任として、責任の所在が不明確となりがちでありますが、これからの時代においてはそういったことは許されません。悪意をもってやることは言うにおよばず、無為の犯罪、つまり行動しなければならないにもかかわらず何もしないということにも責任があり、罪があり得るのだということをよく自覚することが必要なのであります。
今日、情報や知識はどこにでもあります。インターネットの中を探せばいろいろな情報や知識がいとも簡単に得られます。したがって、基本的な知識は知っていなければなりませんが、ある程度以上の詳しい情報や知識は必要なときに取り出せばよいわけであります。これから大切なことは、そのような知識をどのように使うかということ、知識をひけらかすのではなく、ほんとうに社会の役に立つために使うことが大切なのであります。これからの我々が学ぶべきことは、知識や知識を用いて種々の結論を導き出す推論の方法とともに、それらをいかに適切に行うか、倫理、道徳に反しないように活用できるか、社会に対してほんとうに貢献していける形で用いることが出来るかということをよく考え、行動することを学ぶことでありましょう。
大学では知識と知識の利用法はよく教えますが、残念ながら人間にとって最も大切な善を実現する形で知識を用いる道ということはほとんど教えていないのであります。倫理学や道徳論などは哲学の一分野として教えてはいますが、これはあくまでも知識として教えているのであって、実践の学として教えているのではないというところに、価値中立である学問・知識を取り扱う大学の限界があると
言わざるをえません。
中国古典の一つに『大学』があります。人間は心を正しくし、誠意をつくさねばならず、そのためには物の道理をきわめ、学問の修得をしなければならないということを論じた書物であり、古来真の学問の修得を志すものにとっては必読の書でありました。この『大学』の冒頭に「大学の道は明徳を明らかにするに在り。民を親あらたにするに在り。至善に止まるに在り」という言葉があります。諸橋轍次先生の解釈によれば、大人(たいじん)、君子の学の目的は、第一に天から授けられた徳性、つまり良心を立派に磨きあげることであり、第二にはひとり自分を磨きあげるのみならず、これを推し広めて世の一般の人々をも、昨日よりは今日、今日よりは明日と、明徳を明らかにさせることであり、そして第三にはこの二つの項目を至高至善の地位に保たせることである、という意味であります。
今日、我々はこの中国古典『大学』の精神を忘れて、大学で知識のみを学び、知識をもて遊んだり、立身出世したり、金もうけをしたりすることに夢中になってしまっているのであります。しかしこれが間違っていることは、今日の社会の政治的・経済的混乱とそれに翻弄されている人間、多くの悪質な犯罪などを見ればすぐ分かることでありましょう。我々は知識の技法、知の遊戯を超えた世界を目ざさねばならないのであります。それは、何のための学問かという問いであり、『大学』のいわんとするところでありましょう。
諸君の大学生活においては、ぜひともこのことをよく自覚し、知識を学ぶとともに、常にこれを正しく使い、自分の行動を正々堂々としたものにするよう精神の鍛錬をしていただきたいと思います。そのためには多くの先生、友人と接し、お互いに心を開いて語り合うことが必要であり、我々京都大学ではこのことをはっきりと自覚し、ゼミや研究室での教育・研究活動を通じてその努力をしているのであります。
これから諸君が活躍しようとしている21世紀社会は、実に多くの解決困難な課題をかかえております。20世紀の世界は多くの偉大な成果をあげて来ました。科学は目を見はる発展をとげて来ました。物理学においては古典力学から相対性理論の世界、さらに量子力学の世界が開かれました。これは半導体材料技術などの無数の技術を発展させ、今日のコンピュータと情報時代を技術的に支えるものとなりました。化学の発展は19世紀から20世紀にかけて膨大な数の有用な物質や薬品を作り出し、さらに高分子の種々の物質材料の発明は天然の物質材料よりもすぐれた性質を示すものとなっております。また人類は月に人を送り込むとともに、あくなき宇宙の探検を行うまでになって来ました。
このように、20世紀科学技術は目をみはる物質文明を実現し、社会を豊かにして来ましたが、一方では深刻な多くの問題をも作り出して来たのであります。20世紀を終わろうとする今日、これが一挙に顕在化したという観があります。
たとえば、大気汚染や水質汚濁、あるいは森林伐採などによって地球環境が破壊されていく問題、石油等のエネルギー源が枯渇していく中で原子力にかならずしも安心して頼ることができないという問題、人口爆発と食糧危機がおとずれるであろうという心配、さらには環境ホルモンによる生体への影響という恐怖、生命科学の発展に伴って遺伝子操作が自由に行えるようになって引き起されて来ている倫理・道徳問題などはその典型的なものであります。
これらの深刻な問題を解決しなければ人類は21世紀中に滅亡してしまうだろうとも言われていますが、だからといって我々は19世紀以前の社会生活にもどることは出来ません。これはどうしても科学技術の力によって克服していかねばならないのであります。
今日、日本の経済は依然として低迷しており、これを建てなおすのに政府や企業は懸命の努力をはらっておりますが、一方では、国際化、グローバル化の波が強力に押しよせて来ております。これまでは政治や経済、企業活動はもとより、大学の活動なども国内だけを考えてやっておればよかったのに対して、今日では世界の企業が日本に押しよせ、日本的なやり方を国際的、アメリカ的な考え方と制度に合わせるように要求し、内向き志向の日本に対して門戸開放させようとしております。今日はまさに明治維新以来の第二の開国の時期なのであります。
このような劇的な変革の時期に必要な人材は、高い志をもった人達であります。若い諸君が国際的視野をもってよく勉強し、これからの日本、世界をリードして行く人材となっていただくことが期待されています。
日本人はこのような劇的な転換期においても依然として内向きであり、仲間うちでうまくいくことを第一に考え、外に出て行き、多くの人達に自分の考えを説明することを積極的に出来ないでおりますが、これからの日本はそれでは世界の中で生きていけないのであります。欧米はもとよりですが、特に中国や韓国、その他アジア諸国との関係を重視し、相互理解、対等の関係で相手の立場を尊重しながら、こちらの考え方を説明し理解を得るということが出来ねばなりません。
京都大学に入学した皆さんは、将来自分のことだけでなく、日本のため世界のために働き、よりよい社会、よりよい世界を築いていくことのできる数少ない中心的人物であります。皆さんは、この日本の大転換期において、日本や世界のために貢献しようという高い志を持ち、勉学に励んでいただきたく存じます。志を持ち、常に努力していけば、いつかは目標が実現されることは間違いありません。
今日、情報ネットワークは世界中どこにいても利用できる時代となって来つつあり、まちがいなく21世紀は情報社会の時代となるでしょう。世界中の誰とでもコミュニケーションを行うことができるようになり、国境という概念はますます希薄となります。そこで浮かび上がってくるのは個人であります。今日でも世界各地で多くの日本人が個人として活躍し、その地域、その国、あるいは世界に対して貢献しておられるのであります。
皆さんも若い間に外国を見、また外国を経験してください。外国を通り一遍の旅行をするのでなく、そこにいる人、できれば同じ年代の青年とよく話し合い、お互いの考え方をたたかわせることが出来れば言うことはありません。世界にはいろいろな物の見方をする人達がいること、その中で自分はいかにあるべきかということをいやおうなく考えさせてくれます。新しい創造的なことは異なった文化が衝突することによって作られることは広く知られています。皆さんが世界の人たちと自由に意見をたたかわせる人間となるためには、自分の人格を確立しなければならず、また、日本人としての文化と精神を学ばなければならないでしょう。皆さんの年代の間に少しでもそういった訓練をし、経験をすることは、これからの国際化時代を生きなければならない皆さんの一生にとってかけがえのない価値を持つことになるのであります。
国際化時代を力強く生きていけるこのような人物を養成するのが、我々、京都大学のもつ目的の一つでありますが、そのためには皆さんに多くのことを学んでもらわねばなりません。情報リテラシー、即ち情報活用能力や、外国語、特に英語によるコミュニケーション能力を養成することが大切であります。英語をよく聞きとり自由に話せるようになるとともに、いろいろな問題に対してしっかりとした自分の意見をもち、これを的確に相手に伝えることが出来ねばなりません。そのためにも諸君は広く深く種々の勉強をしなければならないのであります。そういった点からも、京都大学では各学部での専門教育とともに、主として1、2年次に学習する基礎教育、一般教育を重視しております。皆さんは京都大学を卒業するための最低必要数の科目で満足することなく、広く種々の学問を学び、自分の人生、社会や世界について深く考えていただきたいのであります。
京都大学は学問の自由を重んじる大学であります。精神の自由があってこそ真の創造を行うことができるわけであり、我々は学生諸君についても学問の自由を尊重しております。ただ注意すべきことは学問の自由、個人の自由というものは無制限のものではあり得ません。社会が自分だけで構成されているのではなく、自由な人格をもった多くの人の集まりであるところから来る必然的な限界があることであります。人間の道徳心は、カントの言葉をまつまでもなく、人間であるところの根元的なもの、すなわち心の奥底からの必然の声としてわき上がってくるものであり、我々はその心を大切にしなければならないのであります。
京都大学は新入生の皆さんを自ら学ぶ意欲を持った独立した大人として迎え、ともに考えながら学問の道を研鑽していくことを目ざしております。諸君は必ずや京都大学のもつ百年余のよき伝統と、すぐれた教官や先輩の中で自らを鍛え、新しい時代の担い手に成長してくれるであろうと期待しております。