平成11年4月9日 学部入学式

学部入学式における総長のことば

平成11年4月9日
総長 長尾 真  

 桜が咲きほこり春らんまんの中を入学されました一般入学生2,851名、外国人留学生等92名、合計2,943名の新入生諸君、京都大学入学まことにおめでとうございます。元総長名誉教授の先生方のご列席のもとに、各学部長、さらに全学の教職員を代表して皆様に何よりもまずお祝いを申し上げます。

 皆さんは長年の努力の甲斐あって、この日を迎えられ、充実した満足感を味わっておられることと存じます。また本日の入学式を迎えた新入生諸君をこのように立派にお育てになられました御家族の皆様にも、お慶び申し上げます。

 さて、諸君は大学に入ってこれまでとはかなり違った方法・考え方で勉強をせねばなりません。これまでの諸君の勉強はともすれば暗記が中心となり、この問題に対する答えはこうだといった形で試験問題を解いて来たのではないでしょうか。数学の問題でも、だいたい問題のタイプが決まっていて、この種の問題に対してはこの公式を用いてこのように解けばよいといった道筋を記憶していて、いわば機械的に問題を解いて来たものと思います。

 大学に入りますと、そのようなやり方は通用しません。自分で問題の内容をよく考え、こうすれば解けるだろうか、ああすれば論理の糸口が見つかるだろうか、というように、物事を深く考えることを大学の講義は要請します。京都大学においては、特にそのような考える能力を重視し、入学試験においてもよく考えねば解けない問題、精神を集中して考えれば解けるはずの問題を出題し、受験生諸君の考える能力をテストして来ました。諸君はそういった問題を放棄せず、積極的に挑戦し、良い成績を取ってめでた合格されたものと思います。

 京都大学では学問の基本的なところから、それぞれの専門分野に至るまで、非常に多くの科目を用意して諸君の勉学に備えていますが、何よりも大切なことは、諸君が学ぶ意欲をしっかりと持ち、在学中にどのようなことを達成しようとするかという目標を明確にすることであります。入学して2、3か月すると学問に対する意欲をなくす学生が現れることがありますが、ぜひそのようなことがなく、この入学式における諸君の勉強に対する意欲を持ち続けていただきたいと思います。入学しさえすれば、あとは遊んでいてもなんとかなるといったことは、京都大学においては全く通用しません。

 さて、21世紀社会の社会を展望すれば、その特色の一つは、国際化がますます進むということであります。1989年のベルリンの壁の崩壊によって世界の政治・経済情勢は大きく変わりました。そして今日、西ヨーロッパは単一通貨ユーロの導入に至り、アメリカ一極集中から別の方向へ動いてゆこうとしております。アジアにおいても中国が門戸を開き、日本とアジア諸国との関係はこれからますます密接なものとなってゆこうとしております。

 企業活動も既にかなり以前から地球規模で行われ、アメリカの大企業はもちろんのこと、日本の多くの企業も全世界を視野に入れて活動をしています。したがって企業活動において外国人と日常的に付き合うことになりますし、国内・国外といった区別なく世界中をとびまわって仕事をしなければならない時代となっております。これからはそういった状況だけでなく、外国人が日本に多数居住するようになるという形での日常生活における国際化も一層進むと考えられます。諸君はそういった社会において生活をし、また活躍することになるのですから、広い教養を身につけ、国際的視野を養い、日本の将来を考える人間に育っていって欲しいのであります。

 したがって、これから始まる講義のそれぞれについて、自分が問題意識を持ち、それを自分で解決してゆくという能動的な意欲を持っていただきたいと思います。「自ら努力する者のみが報われる」ということであります。

 大学で取り扱う問題のほとんどは、唯一の解答があるというものではなく、考え方、立場によって種々の答えがあり、そのうちのどれが正しいものであるかは決められないといった種類の問題であります。また場合によってはそもそも答えのない問題すらも取り扱います。例えば、そもそも学問とは何か、なぜ我々は学問をしなければならないか、といった問題や、そういったことをつきつめてゆくと、人間とは何か、存在とは何かといった哲学の根本問題にまで行き着くでしょう。

 そういったことを考えて、何になるのだという学生諸君がいるかもしれません。自分は専門的知識を身につけに大学へ来たのであって、そんな無意味で役に立たないことを考える暇はない、という人もいるでしょう。法律に書かれていることを全て憶えれば事たれりとか、機械の設計が出来るようになればそれでよいと割り切っている人がいるかもしれません。しかし、法律は人に適用されるものであり、機械は人が使い、人のために使われるものであることから、人間というものを考えずにそういった学問というものはありえません。

 人間には想像力というものがあり、未知の物事を知りたいという気持ち、好奇心があります。これを否定して人間というものはありえません。この想像力、知的好奇心こそが学問の持つ価値につながるものであり、これが人間の心を豊かにし、人格を形成し、文化をはぐくみ、社会をすばらしいものにしてゆくのであります。

 諸君が京都大学でこれから4年間、あるいは医学部の場合6年間に学ぶことは、大別して二種類あると考えられます。その一つは将来社会へ出て進んでゆく方向に応じた専門的な知識や技術を学ぶことでありますが、これについては特に説明を必要としないでしょう。

 もう一つはそういった知識や技術をどのように使えば問題がどのように解決できるかといった、物事を考える力を養うことであります。そこには物事を推論してゆく方法と、推論した結果が妥当なものであるかどうかを多くの周囲条件を考慮に入れて決定する判断力が必要となりますが、この判断力の要請ということは人格の陶冶なしには不可能なことなのであります。

 こういったことに対して大学は諸君に種々の形で助言を与え、支援をすることは出来ますが、これを生かし本当に自分のものとして判断力、実行力をつけてゆくのは諸君の自覚によるのであり、諸君の自発的努力によるのであります。入学試験は諸君のそのような面のチェックはしておりません。諸君は学力的には優秀ではありましょうけれども、人生において最も必要とされる判断力と実行力という点での保証はないのであります。ですから、この4年間によく勉強するとともに、よき友人・先輩を見つけ、お互いに切磋琢磨し、種々の経験をすることによって人格を磨かねばなりません。

 最近あまり言われなくなりましたが、「真善美」という言葉があります。正しいことを知り、正しいことを行う、これが真であり、大学の使命の第一は学生諸君にこの真に到る道をいろいろと教えることであります。しかし、社会を生きてゆく上において真だけでは十分ではありません。善という観点が必要となります。善には価値という視点が加わります。善は美とともにギリシャ以来の哲学の中心課題の一つでありますが、ここではそこには立ち入らず、ごく普通の常識的な議論をいたしますが、善に価値という概念が伴うのは、善には必然的に意志と行為が伴い、そして対象として他者の存在があるからであります。善は理性を超えた人間頭脳活動のより深い層に関係するもので、人格の多くの部分を担っているところといってよいでしょう。

 さらに、その先に感性の世界があり、これが美と呼ばれているものに直接関係します。人間の頭脳活動の最も深い部分に関わっているものであります。善という価値観を超えいわば絶対世界を指向するところに美というものの特徴があります。人格陶冶の究極の目標はこの美の感覚を身につけることであると言ってもよいと思います。

 しかし、美とは何かを説明することは簡単ではありません。なぜなら美は理性的な説明という世界を超えた所にあるものだからであります。ただ、美は時間を忘れさせてくれ、また悠久の時間の流れを感じさせてもくれます。そして何といっても感動を呼び起こし、崇高なものに対して憧れる心を呼び覚ましてくれます。美は現代人の持つ苦悩を認識させてくれるとともに、人の心を高め、豊かにしてくれます。このようにして美は、人間性を認識し、世界を見る眼を養い、社会を敏感に感じる人格を磨くのに大きな役目を果してくれます。

 美は美術作品によって感知することができます。文学作品や音楽によっても触れることができるでしょう。また、世界文化遺産に指定された京都は、町そのものが美の塊であります。社寺庭園はもちろんのこと、数々の国宝があり、また30分も歩けば山裾の静かな佇まいに身をおくことが出来ます。そこには小川のせせらぎがあり、お地蔵様が祭られているといった世界があります。

 京都大学に入学した諸君はそういった点で特に恵まれています。日本の伝統が今なお生き続けている京都という空間の中で学生生活を過ごし、自由に勉強し、物事を深く考え、美意識を磨くことのできる身の幸せを感謝しなければなりません。

 しかし美はそういった対象世界にあるだけではありません。人の生き方の中にも美はあるのです。美は自分の目で見、体によって感じ、自分の感性によって発見するものであって、何の変哲もない所にもそれを感じることがありえます。ただ、美を発見し、美を味わう力は長期間にわたる絶えまない努力によってしか培えません。現代芸術を味わうためには現代という時代とその時代精神を深く認識していなければなりませんし、諸外国の芸術を味わうというとき、それらの国の歴史と文化、現状といった背景を知っているといないとでは、その感じ方の深さと質が全く異なります。まして人の生き方の中や何でもないところに美を発見するには「こころ」が必要であります。

    大学において諸君は善についてはある程度学び身につけることができるでしょう。しかし残念ながらこの美の感覚については教えることができるものではなく、諸君の京都での学生生活という実践を通じて体得してもらわねばなりません。

 繰り返しになりますが、これからの社会においては真だけでは不十分であり、善を実践する努力をしなければなりません。ただ何が真であるか、何が善であるかを判断する基準は簡単でなく、究極的に何によって判断するかと問われれば、それはその人のもつ美に対する鋭い感覚によると言わざるをえないのであります。そして美的直観を磨いている人の判断はまず間違わず、その実践は正しく、また社会に対して善をもたらすことになるでしょう。

 したがって、これからますます複雑化し、何が正しいかが明確化しない21世紀社会において、この美的感覚は欠くことのできないものであると思います。そういった意味で、私は「真善美」の中で美が最も高位に位置するものと考えており、京都大学という恵まれた環境に入ってくる新入生諸君に対しては、よく学ぶとともに、美的感覚を磨き、人格の陶冶を心がけていただくことを願うのであります。

 諸君の大学生活が実り多いものであることを心から祈り、お祝いの言葉といたします。