副学長ノート 臨床心理学について(2004年6月21日)

副学長ノート 臨床心理学について(2004年6月21日)

東山 紘久

臨床心理学について

臨床心理学は不思議な学問です。それは「こころ」は「こころ」でしか計れないし、わからないからです。科学が進歩し、因果論が普通の思考のパターンになっている現代において、因果論ではわかり言えない、それでいて科学を指向する臨床心理学は、最先端の学問と言えますし、原初的な学問だとも言えるでしょう。われわれ近代人は、合理的で、機敏で、目に見える効果があることを含め、それに追われています。人間は、あまりにも合理的な世界に置かれたり、価値基準で評価されますと、こころの方は非合理的で、ゆっくりした、何の役にも立たないと思われるようなことに魅かれるのです。この世界はある意味であやうい世界です。臨床心理学が接する世界は、危ない世界を含んでいるのです。

臨床心理学は実学です。「癒し」という言葉が、一種の流行語になっていますが、臨床心理学徒によって、「癒し」が実際に行われないと、臨床心理学は何の意味もありません。臨床心理学の「癒し」は、身体医学の「癒し」とは、異なっています。医学的治療は、病んだ部分が元に戻れば、即ち、元の健康な状態を回復すれば、最大の治療効果をあげた、と言えます。しかし、元の状態よりもっと良い状態にするときは、医学ではできません。手術で取り去った部分は、病気が治ったあとも元の状態以上に回復することはありません。それに比べて、臨床心理学をしている者として最大の喜びは、心に悩みを抱え、心の問題に翻弄されていた人(クライエント)が、それを克服したときは、心を病む状態の前の人格より一段成長した人間に変わってくることです。前の健康な時の心より、成長した心を獲得されていることです。このような魅力に取りつかれて、多くの臨床心理学徒は、日常の心理臨床活動や研究をしているのです。

非合理的であやうい世界に、どこか魅せられた人々が臨床心理学を好むところがあります。世の中の矛盾や現行の価値観や大切なのに大切にされていないようなものに、敏感な人が臨床心理学をやりたくなるのです。逆に、あやうい世界を持ちながら、その脅威にさらされるのを恐れる人は、臨床心理学を毛嫌いします。合理的なことしか認められない人は、臨床心理学が述べようとしていることは、いい加減でわからないものだと感じます。臨床心理学はどこか影の世界と深く関わっています。現代は影の世界が白日に晒されるような、また、晒そうとする力が強いのです。影の世界は影のルールの中で、ひっそりと生きていることに意味があります。影の世界はどこかで表の世界を補佐しているのです。影の世界のことがらが、影の世界のルールを破ってしまいますと、ケジメが無くなってしまいます。また、そのまま表に出すと、色あせるか、排斥されます。表と裏が混在しますと、わけの分からない状況が生まれます。現代の日本社会には、昔は存在したケジメが無くなってきたと言われています。影の生き方を支えていた、ルールが無くなってきたからなのです。表の世界ばかりに、表のルールばかりで生きていきますと、人間はつかれてしまいます。こころの成長には悪を受け入れることが必要です。これは悪を得ることとは異なっています。「清濁合わせ呑む」という諺の示している世界です。

影の世界を理解しようとすると、現実吟味が必要になります。現実を吟味する力がないのに、影の世界を探求しようとすれば、影の世界の虜になってしまいます。影に親和性のある人が、現実の世界から引き離され、非現実の世界に迷い込んでしまうことはよくあることです。

「エッセンシャル臨床心理学」ミネルヴァ書房あとがきより