2025年秋号
研究室でねほりはほり
石原正恵 准教授
フィールド科学教育研究センター
芦生研究林長
「植物学を学ぶものは一度は京大の芦生演習林を見るべし」。著名な分類学者の中井猛之進博士は、かつて芦生研究林を称してそう述べた。確認されているだけでも、生育する植物は1,000種以上。人の手が入っていない原生的な姿の森が残る。研究林の豊かな生態系を残し、森と人との新たな関係を築くべく、石原正恵准教授は「超学際研究」に力を入れる。
「森が見せてくれる表情は毎日違います。訪ねるたび新たな発見がある場所です」。大学時代から20年以上、芦生研究林での森の調査・研究を続ける石原正恵准教授。ものさしと紙とペンを手に、樹木の成長の跡を記録しながら、その木が生きた数百年に思いを馳せる。「研究林が設置された100年前からこの木は今とほぼ変わらない姿で、ここに佇んでいたんだと考えると、感動もひとしおです」。
「農山村の課題や貧困問題を解決したい」。そんな思いを胸に、京大農学部に入学した石原准教授を森へと誘ったのは衝撃的な出会い。のちに師と仰ぐ、菊沢喜八郎先生の授業だった。「菊沢先生は毎日、ペンと紙を手に森に入り、葉が何枚出て、何枚落ちたのか、逐一記録されていました。誰も気にも留めないようなことから、樹木の暮らしを明らかにし、それはそれは楽しそうにお話しされる。『楽しい、知りたいと思いながら研究してもいいんだ』と青天の霹靂でした」。
そうして研究を始めた頃の研究フィールドは、地上20m、研究林内の大木の周囲に設置されたやぐら。森林生態学の分野では当時、樹上は「最後のフロンティア」だった。「人類は月面にも行っているのに、地球にある樹上は未知の世界。樹上の研究が進められていた時期でした」。
そのなかで石原准教授が取り組んだのが、1本の樹木の中での枝と枝との関係。「枝同士は人間の脳と手・足のような連携されたシステムなのか、それとも独立したものなのだろうか。1本の樹木の中の、高所の枝と低所の枝との関係にヒントを見つけられたらと、毎日やぐらに登りました」。
地道な観察を続けて気がついたのは、枝の成長が木ごとに大きく異なること。若い木は枝を毎年何十cmも伸ばすことを優先し、花はつけない。一方で、年をとった巨大な木は枝をほとんど伸ばさない代わりに、花をたくさん咲かせて、繁殖に注力していた。「しかも、花を咲かせる年と咲かせない年があり、その周期にあわせて、枝を2〜3mmしか伸ばさない年と10cmほど伸ばす年とがあった。そしてその周期が高所の枝と低所の枝とで同調しているのです。巨大な樹木の体のなかで、『今年は花を咲かせよう』と枝が連携している。地上から見上げるだけでは分からなかった数百年の寿命を有する樹木の生き様を発見し、ワクワクしました。これからも簡単な道具だけで、樹木の不思議や動きに迫る研究を目指していきます」。
原生的な森林の残る地として知られてきた研究林だが、近年、ニホンジカの食害が生態系に大きな打撃を与えている。「学生時代に見た森は、樹上からは地面が見えないほど、下草が生い茂っていました。でも、今は多くの場所で地面が露出しています」。
シカ害から森を守ろうと、2006年に「芦生生物相保全プロジェクト」が京大の研究者や学生を中心に始動。2017年には国定公園の「生態系維持回復事業」が始まり、2か所に総面積29ha、総延長3.3kmにも及ぶ大規模な防鹿柵と、草原や湿原の植物を保護する小型防鹿柵が設置された。雪の重みで壊れないように冬はネットを下ろしたり、破れがないか見回ったり、植物・動物・微生物など様々な研究者、技術職員や市民ボランティアなどと協力して柵を維持する。

防鹿柵内では、下草や若木の回復が見られるなど、一定の成果をあげているが、長年にわたりシカ害に見舞われた区域では、柵を設置しても思うような植物の回復が見られないという。「私たちの研究から、シカが食べる量に比べ植物の回復量が追いつかなかったり、そもそも回復元となる種子が少なくなったり、シカ害が四半世紀続くなかで、生態系が変わってきていることがわかってきました。事態は深刻で、植林や土木工事など、大がかりに人が介入する保全策も視野に入れなければならない局面。これまでの保全活動とは違う、新たな策を科学的に考える必要に迫られています」。
シカ害は、日本や世界各地の森にも共通する喫緊の課題。現地の関係者やシカの研究者との連携も進める。「ゆくゆくは政策提言にもつながれば……。生態学の枠を超えての議論が必要ですが、同志が各地にいて、協働の空気が生まれているのは心強いです」。
研究林での調査・研究にほぼ毎日従事する常駐の教員に着任したことを機に、人口約3,000人の南丹市美山町に子どもと移住。学生時代とは違い、地域の人たちや暮らしにどっぷりと関わる日々が始まった。「暮らしを通して、これまで知らなかった農山村の魅力に目を見開かされ、同時に農山村が抱える課題を知りました。研究林のシカ害問題は、農山村の過疎高齢化や、都市への人口集中と過密ストレス社会という問題と無関係ではないということも見えてきました」。

そうした視点で取り組むのが「超学際研究」。学問分野の枠組みを超える「学際」に加えて、市民・企業など様々な立場の人たちが協働して課題解決を目指す「学際を超える」考え方だ。「美山町内でもとりわけ森に近い芦生地域には、トチの実の調理方法や、狩猟、わさび祭など、古くから続く伝統知・地域知が今も残っています。こうした知を学び、現代社会が失いつつある人類と森とのつながりを再評価し、地域づくり・産業に活かして、森の課題も人間社会の課題も同時に解決していこうとする様々なプロジェクトを様々な人と進めています」。
石原准教授を驚かせた地域知がある。技術職員にドローンを飛ばしてもらい、研究林内のトチノキの分布を調査したときのこと。「地元の方は毎年、栃の実を採集していました。彼らが知るトチノキの分布状況と、ドローンの結果とが一致したのです」。さらに、どの木の実が大きいのか、どの木が早くに実を落とすのかなども熟知。「ドローンでは測れない、何年も森とともに生きてきたからこそ体得した知恵です。伝統知・地域知とはどういうものかを、はっきりと理解した体験でした。研究でも、新しい知見が生まれるきっかけは、何年、何十年も通い続けたから得られたデータや、実際の体験、動いた感情があってこそ。地域知と科学知にはフィールド起点という共通性があり、そして、それぞれの知の強みがあります」。
樹木の不思議に惹かれて歩んだ研究の道。気がつけば、モチベーションは大学に入学したときに抱いた「社会課題を解決したい」という志に戻ってきた。「ある大先輩の研究者から、『これからは人を取り込んだ学問が必要だ』と言われました。森と地域にどっぷりと浸かり、多くの方と関わって多様な知に触れるなかで、だんだんと私にとっての『人を取り込んだ新しい知』を描けるようになってきた。これが私たち人間社会が直面する課題を解く鍵となると思っています。見えてきた道を今はとにかく、邁進したいです」。
芦生研究林は、京都市の北部、福井県と滋賀県に接する京都府北東部に位置。面積は約4,200haで、標高は355〜959m。全面積の3分の2を標高600〜800mの部分が占める。
絶滅の危機に直面する希少植物を、生育地の外で増殖・栽培する域外保全の取り組みを2018年から開始。研究林内の自生地から種子を採取して栽培している。増殖した苗は遺伝分析をし、遺伝的な多様性の確保にも務める。現在はとりわけ緊急性の高い5種が対象。
確認されている植物の種数は、合計1,047種。うち200種は「京都府レッドデータブック2015」に記載されている貴重なもの。標高600mまでは、暖温帯林の構成種であるカシ類がみられる。それ以上の標高では、冷温帯林に見られるブナやミズナラがみられる。
2006年と2017年、林内の2か所に、総延長3.3kmを超える防鹿柵を設置。植生の回復過程のほか、水生昆虫や水質などのモニタリングも実施し、森林生態系のなかでシカの及ぼす影響を捉えようとしている。
「斧蛇館(おのじゃかん)」
2024年にリニューアルオープン。芦生研究林の研究成果や活動、芦生の生きものの剥製、かつて芦生の森で暮らした木地師の作った杓子などの木製品などが展示されている。入り口には、かつての芦生の姿を幅9mで描いた四季絵巻(画家の平田有加さん作)のレプリカを展示。
倒木から発芽。シカの届かない位置ゆえに食害にあわずに残っている
林内の木にはクマハギの痕があるものも
いしはら・まさえ
1977年生まれ。横浜・タンザニアなどで育つ。2006年、京都大学大学院農学研究科博士後期課程修了。東京都レンジャー、広島大学講師などを経て、2018年から現職。