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研究室でねほりはほり

2021年春号

研究室でねほりはほり

遅咲きの研究者が挑むがん免疫療法の新たな切り札

河本 宏
ウイルス・再生医科学研究所 教授

「胸腺でT細胞が作られる様子を大胆にデフォルメしました」。「T細胞製造工場」と名付けた絵の中で、白衣を着たキャラクターたちがせっせと仕分けているのが免疫の要であるT細胞。作画した河本宏教授がその謎を追い求める細胞だ。臨床医としてがん患者と向き合い、一度は無力感に押し潰された河本教授の使命感は、基礎研究のフィールドで蘇り、がん免疫療法の壁を破ろうとしている。

「T細胞製造工場」(2009年)

私たちの身の周りは、目に見えないウイルスや細菌、カビなど、ヒトの体内に侵入すると病気を引き起こす病原体で溢れている。しかし、そうそう病気に罹らないのは、私たちの体に備わった「免疫」のおかげ。体内に侵入した病原体を攻撃して排除したり、病気に罹ったとしても症状を軽く抑えたりする体の働きだ。免疫の砦は、生まれつき備わる自然免疫と、後天的に獲得する獲得免疫の二つ。「自然免疫で対処できずに、細胞や血液内に侵入してしまった病原体を攻撃するのが獲得免疫です。一度侵入した病原体の情報は記憶され、同じ病原体が再び侵入したらすぐに攻撃できる。獲得免疫の要として働くT細胞が私の研究対象です」。

基礎研究者として、32歳の再スタート

京都大学医学部を卒業してから15年間、臨床の現場でがん患者と向き合う内科医として過ごした河本教授。「患者さんの命を助けられない、という事実に向き合えず、医者を続けることを辛く感じるようになりました」。血液がんの一つである白血病は、今でこそ、骨髄移植などの治療法が進歩し、克服できる可能性はぐんと高まっている。しかし、かつては治療困難な病気とされていた。「当時はご家族の意向で、患者さん本人に病名を伝えないことも多かった。偽りながら、患者さんと接しなければならない無力感に打ちひしがれていきました」。

積もる苦悩に加え、大学院時代、漫画の創作や音楽活動に明け暮れ、真面目に研究をしなかったことへの後悔がしこりとなって疼いた。漫画への入れ込みは凄まじく、院生時代の夏休みに1か月半かけて描いた漫画は、青年漫画雑誌『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の新人賞で奨励賞を受賞。憧れの漫画家への扉が開いたが、画力の限界にぶつかり、見切りをつけた。「そうして、学位を取り損ねてしまったのです」と苦笑い。「一生に一度くらいは真面目に基礎研究をしてみようと、京都大学再生医科学研究所(現・ウイルス・再生医科学研究所)の桂義元研究室の門を叩きました」。32歳、大きく遅れをとって、河本教授の研究人生はスタートした。

選んだテーマは、「血液細胞の成り立ち」。赤血球や血小板、T細胞、B細胞など、全ての血液細胞は骨髄の造血幹細胞から分化する。T細胞とB細胞は、細胞の形や免疫反応が似ており、分化の道筋も近いと考えられていた。「それは本当だろうかと疑問に思い、造血細胞の分化の仕組みを明らかにしたかったのです」。

7年間、医師のアルバイトをしながら研究に没頭し、血液細胞の分化の定説を覆す成果を発表。T細胞とB細胞の分化の道筋が異なることを発見した。基礎研究に手応えを感じつつも、進路を決めあぐねていた。研究者の道に留まらせたのは、当時、本学医学部の免疫細胞生物学講座の教授であった湊長博先生(現・総長)の一声。「どや、助手(現・助教)としてうちに来んか?」。40歳にして、基礎研究に専念できる環境が整った。

その半年後、理化学研究所のチームリーダーとして採用された。「ようやく遅れを取り戻したとほっとしたものです」。横浜で単身赴任の9年間、腰を据えて研究を推し進め、成果は『ネイチャー』と『サイエンス』に掲載された。

学会やシンポジウムのメインビジュアルとして描いたイラスト。依頼を受けて着想を膨らませ、作画にかかる

「世界でここだけ」の技術の開発に成功

2012年に再生医科学研究所の教授に着任すると、これまで積み上げた基礎研究は臨床応用へと羽ばたき始める。「T細胞の分化を解明できたときには、体外でT細胞を分化させて薬として使うという大それた目標を掲げていました。夢物語でしたが、研究を続けた結果、2013年に世界で初めて、iPS細胞からキラーT細胞を大量に再生させる技術を確立しました」。

がん患者の体内には、がん細胞を認識して攻撃するキラーT細胞が存在する。血液がんに使われる免疫療法は、このT細胞を利用したもの。患者から取り出したT細胞の遺伝子を操作し、攻撃力を強めて再び体内に戻す。しかし、がん細胞は厄介。T細胞を抑制する力があるので、T細胞は攻撃力を発揮しきれない。「でも、私たちの方法なら、攻撃力の高いキラーT細胞を大量に培養して、体内に戻せるのです。人間に元来備わる免疫機能を強めるだけですから、化学療法や放射線治療のような副作用が少ないのも特徴です」。

さらに、河本教授の培養技術が突出する理由は、誰にでも投与できる汎用性の高いキラーT細胞であること。通常、他人の細胞から培養された細胞を投与すると、異物とみなされ、拒絶反応を起こしてしまう。自らの細胞しか使えないとなると、作製の費用や時間がかさむ。「その点、私たちの方法なら冷凍保存もできますから、必要な患者さんにすぐ届けられる。薬のように気軽にT細胞製剤を投与する時代がやってくると確信しています」。

医療は進歩しているとはいえ、がんはまだまだ完治の難しい病気の一つ。「がんに苦しむ人たちの仇を取りたい」という思いが奥底で燃える。「臨床医として接したがん患者への思い、それからすい臓がんで亡くなった父への思いもあります。この技術を世界で最初に発表できたとき、覚悟は決まりました。再生T細胞を患者さんに投与できる段階まで近づくよう、力を尽くそうと」。臨床のフィールドに再び、足を踏み入れた。本学医学部附属病院の血液・腫瘍内科と共同で取り組み、既に白血病治療の実用化へのカウントダウンが始まっている。「もう少し波に乗るまでは、心を休める暇がなさそうです」。

まだまだ道半ばの忙しい日々

研究室には楽器も多数置かれている。壁には、漫画家や画家の作品、自身の過去作品を飾る

さらに、この技術を応用して、新型コロナウイルス感染症の治療法の開発にも挑む。感染症から回復した患者のT細胞からウイルスに特異的な受容体の遺伝子を取り出し、それを用いて作製したキラーT細胞を感染者に投与し、症状を抑えるという。「新型コロナウイルスの患者を多く受け入れている藤田医科大学で研究を進めています。今回のパンデミックには間に合わずとも、次のパンデミックへの備えや他のウイルス感染症にも応用できる技術です」。

平均睡眠時間は5時間。子育てがほぼ終わり、週末もずっと教授室にこもる。「iPS細胞からキラーT細胞を再生する技術は、私たちの研究室が世界一だと自負しています。この技術がもたらす無限の可能性を後進にしっかりと手渡すことも大きな役目。すべきことはまだまだたくさんあって、のんびりできる日は遠そうです」と笑う。

そんな多忙な日々にあっても、寝る前の1時間、音楽や漫画、テレビドラマに没頭する時間は欠かさない。「新しい技術の開発に向けて考えを巡らしたり、ラボの若手と議論したり、論文を執筆したりするのと同じような感覚で、絵のアイデアを練ったり、自作曲を磨いたりしています。この世になかった新しいものを〈作っている〉と実感できることが好きなのでしょうね。時間があっても、結局、何か新しいことを始めてしまうのだと思います」。河本教授の好奇心や野望は、この先もさらに〈分化〉を繰り返すに違いない。


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かわもと・ひろし
1961年、京都府に生まれる。京都大学医学部を卒業。1993年、医学博士。関西電力病院、京都医療少年院で内科医として勤務。京都大学医学部助手、理化学研究所免疫・アレルギー科学総合研究センターチームリーダーなどを経て2012年から現職。

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