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恩師を語る

2020年秋号

恩師を語る

ケチはアカン。余裕のあるところにしか新しいサイエンスは生まれへん

高橋淑子
理学研究科 教授

岡田節人先生といえば、個性豊かな京都大学の「名物教授」の中でも、一際鮮烈な印象を残す教授だ。「節人(ときんど)ぶし」と呼ばれた語りを炸裂させ、派手なグリーンのジャケットを着てスポーツカーを乗り回す姿は、従来の学者像を一新し、学生たちの憧れとなった。一方、科学の過去・現在・未来を俯瞰して繰り出される独創的な発想は、発生生物学に新たな潮流を生み出し、日本の生物学を国際的なレベルに引き上げた。「オカダケンでの5年間に学んだことは私の血液になって流れている」。嬉々としてそう語る高橋淑子教授は、恩師とともに学問の最先端を駆け抜けた日々を懐かしむ。

1978年、ご自宅の前で真っ赤なアルファロメオと。隣に写るのは妻の瑛さん

「緑色のスーツを纏って、とてつもないオーラをぶっ放していました。遠くからでも一見の価値ありですよ、あの人は」。赤いパンツに派手なシャツを着て、真っ赤なスポーツカーのアルファロメオをぶっ飛ばす。京都大学を象徴する名物教授として知られる岡田節人先生との記憶を辿り、ときには岡田先生の口調を再現しながら、高橋教授は笑みをこぼす。

「学生の前ではいつでも、『科学は楽しいぞぉ!』という顔をして生きてくれました」。自発性に任せ、いちいち細かな指導はしない。「おれの背中を見とけ」。でも、それすら語らない。「ヘッヘッヘッ」の笑い声で、科学者として生きる楽しさを体現し、学生たちを学問の世界に引き込んだ。

「もうキョーレツ。大親友のジョン・ガードンさんがノーベル生理学・医学賞を受賞したときの一言は、『あんなもんは、余興や!』。自身がある賞を受賞したときですら、『しもた!ホテルにメダルを忘れてきてしもたわ』(もちろんわざと置いてきた)。これが岡田節人。これがみんなの憧れなんです」。

オカダケンで〈世界〉に出会う

岡田先生の著書『試験管のなかの生命──細胞研究入門』に魅せられ、広島大学から京都大学大学院理学研究科に進学した高橋教授。1980年当時、理学研究科の女子学生はごくごく僅か。図書室にいると、司書に間違えられることすらあった。「だけど、〈オカダケン〉には女性はもちろん、他大学からやってきた院生もいたし、海外のトップ・サイエンティストが頻繁に出入りしていた。多様性なんて、ここでは当たり前。とにかくね、オカダケンのぼろっちいドア、これを開けたら、そこはもう〈世界〉だったんです」。

オカダケンこと生物物理学教室は、岡田先生が初代教授を務め、1968年に創設。一度分化して特徴を持った細胞でも、ときに別の種類の細胞に分化を変更しうるのではないか。この「細胞の分化転換」を研究テーマに据え、胚の切除や移植などを手法とする古典発生学に最先端の細胞培養技術を取り入れた。1972年には、助教授の江口吾朗さんが「分化転換」を世界で初めて証明。iPS細胞など、幹細胞生物学の技術に繋がる源流となった。

新しい知識を持ち込むべく、外部からスタッフを招いたこともオカダケンの特徴。「江口吾朗さんはその筆頭だし、岡田先生の問題意識を受け継いでカドヘリンを発見した竹市雅俊さんもその一人。次の潮流となる分野を見極め、研究の本質を見通す岡田先生の〈目利き〉は抜群でした」。

「先見の明」で30年先の科学を描く

1983年頃。白衣姿の岡田先生

高橋教授が院生だった頃の研究テーマは、細胞分化を引き起こす鍵となる遺伝子を見つけること。当時、発生学にDNAの考え方を取り入れる発想は先鋭的で最先端。その先頭を切り拓くべく招かれたのが安田國雄さん(後の奈良先端科学技術大学院大学学長)と近藤寿人さん(後の大阪大学名誉教授)の2人。「藪を分け入る2人の背中を追いながら、研究の楽しさを実感する毎日でした」。

1981年、イギリスのケンブリッジ大学でマウスのES細胞が樹立されると、岡田先生はいち早く近藤さんをイギリスへと向かわせた。持ち帰った僅かなES細胞の培養を任されたのが当時の高橋教授。「日本ではまだ誰も触ったことのない細胞です。当時の私には、岡田先生が『これからはES細胞や!』という理由はよく分からなかったけれど、とにかく細胞が死なないよう、近藤さんと懸命に培養しました」。

ES細胞は後に、マリオ・カペッキによるノックアウトマウスの作製に繋がり、約25年後には山中伸弥教授によるiPS細胞が樹立され、幹細胞研究は大きな花を開いた。「岡田先生は決して、ES細胞でノックアウトマウスができるだろうなんて、期待していたのではありません。『これオモロイな!これでこの先の科学がああなったらオモロイ!』。そう言って、この先にどんな生物学が発展しうるのかを大きなスケールで描いていたんです。これは論文になって評価されるぞ、なんてケチなことは考えない。スケールがあまりに大きくて学生じゃついていけないのだけれど、『ケチはアカン。研究者っちゅーのは余裕がないとアカン』という美学のようなものは5年間で目一杯に吸収しました」。

日本の学者の〈顔〉となり、発生生物学をけん引

ジョン・ガードンをはじめ、第2回京都賞を受賞したニコル・ルドワランなど、名だたるトップ・サイエンティストたちと深い交友関係を築いた岡田先生。毎年のように日本にやってくる彼らとの議論の時間は、若い研究者たちにとって見識を磨く貴重な機会となった。「日本の発生生物学をなんとしてでも国際的なレベルに高める。これが岡田先生の最も強いパッション。世界を動かしてやろうという、その熱意とスケールは桁違いです」。

動物学教室には、源流となる動物学第三講座が残した学術記録が保管されている。1929年の創設時から続く記録は、太平洋戦争の期間、ぱったりと途絶える。記録が復活するのは1947年。「荒廃した日本で、学者たちは立ち上がったのだなと胸を打たれます。この時代を岡田先生は多感な高校生、京大生として過ごした。大好きな発生学を続けるために何ができるのか、たくさん考えられたのだろうと思います」。

メールはもちろん、ファクシミリもない時代から海外の研究者と交流し、ご自身の人柄、確かな知識と直感を武器に、世界と渡りあった。1981年には、日本人初の国際発生生物学会会長に選出。名実ともに岡田先生は日本の学者の〈顔〉であった。「今も昔も日本で国際学会を開くのは骨の折れる仕事。なのに、あの時代、『トキンドがいるから』と分野のトップスターがこぞって京都にやってくるんです。それを堂々と出迎える先生もかっこよかった。日本の生命科学は、岡田節人がいなければ20年は遅れていたでしょうね」。

岡田先生がオーガナイザーを務めた谷口財団国際シンポジウムで。前列左から5人目が岡田先生。6人目は高橋教授の恩師の一人でもあるニコル・ルドワラン先生。8人目がジョン・ガードン先生。オカダケンでスタッフを務めた研究者も多く写っている(1997年)

〈皮膚呼吸〉で研究者としての矜持を学ぶ

自動車や麻雀、昆虫採集など、あらゆることに興味を持ち、「趣味」と呼ばれるのを嫌うほど、妥協せずに没頭した岡田先生。クラシック音楽に至っては、評論を執筆し、京都市交響楽団の友の会会長を務めるほど。何事も〈本気〉故に、多忙で無理をしていたのではないかと高橋教授は慮る。「だけど、学生には絶対に弱みや努力の跡は見せないのですよね。学生の前ではいつも『ハッハー』と機嫌よく笑う。それがどれだけ我々を元気づけたことか、今ならよくよく分かります」。

プラナリアの再生研究で知られる阿形清和さんをはじめ、日本を牽引する生物学者を多く育てた。岡田先生から手渡されたものを次世代にどう伝えるのか。教室を主宰する立場に立つ高橋教授は、恩師の苦労と偉大さを今更ながら実感する。「広い視野と大きなスケールが大切と、口で言っても伝わらない。岡田先生も一度も言葉にしなかった。だけど、日々の小さなやり取りから学ぶのですよね。学問の楽しさも、自分の苦労や功績をベラベラ話すのははしたないのだ、ということも。オカダケンにいると、そうした美意識は〈皮膚呼吸〉のように浸みてきた」。

旅立ちは紫色のスーツだった

緑のスーツを着込み、講演する岡田節人先生(2003年)

2017年1月17日、生物物理学教室の創設50周年と、自身の90歳の節目を目前にして、岡田先生はこの世を去った。門下生が開いた偲ぶ会には、「とにかく最後にお別れを言いたいんだ」と各地から声が上がり、それぞれ岡田先生との記憶を大事に抱えて集まった。「形式的な付き合いで参列した人はいなかった。フランスのルドワラン先生(当時86歳)に3行程度の追悼メッセージを依頼したらA4で2枚もの長文が送られてきた。そうしたどれもが〈岡田節人〉の魅力を表しているから嬉しくてね。私たちも祭壇には白い菊を並べず、『岡田先生なんだから、いっちばんカラフルな花を並べよう』と。だって岡田先生、棺桶の中、旅立たれるときは紫色のスーツでした。ゴッツかっこよかった」。

岡田先生を乗せた霊柩車は、火葬場に行く道すがら、遠回りをしてかつてオカダケンのあった現・理学部1号館の前を走った。「どこまでも京都大学の人間でした。私たちにとって、この人ほどの京都大学の看板教授は他にいませんよ」。

紫色のシャツに真っ赤なジャケット、真っ赤なジーンズ。眩しいほど鮮やかな衣装も、年月の経過した写真の中で少しずつ色褪せてゆく。しかし、門下生たちの血や肉となり精神に刻まれた岡田先生の品格と感性は、決して褪せることはないのだ。

たかはし・よしこ
1960年、広島市に生まれる。広島大学理学部卒業。1988年、京都大学大学院理学研究科生物物理学専攻博士課程修了(理学博士)。同年、フランス国立科学研究センター発生生物学研究所ポスドク。オレゴン大学、コロンビア大学ポスドク、理化学研究所チームリーダー、奈良先端科学技術大学院大学教授などをへて、2005年から現職。

岡田節人(おかだ・ときんど) 略年譜

1927 伊丹市に生まれる
1950 京都大学理学部動物学科卒業
1954 京都大学理学部動物学科助手 (動物学第三講座)
1957 エジンバラ大学動物遺伝学研究所に留学。イギリスまで船で向かう
1959 京都大学理学博士 (題目「両生類の消化器官分化に関する実験形態学的研究」)
1960 京都大学理学部動物学科講師 (動物学第三講座)
1961.12 京都大学理学部動物学科助教授 (動物学第三講座)
1964 米国カーネギー発生学研究所に留学
1967.8 京都大学理学部動物学科教授 (発生生物学講座)
1968.4 京都大学理学部生物物理学科教授 (原形質物性学講座) * 1971年5月まで動物学科発生生物学講座教授兼任
1972 『細胞の社会──生命秩序をさぐる』 (講談社ブルーバックス)
1976 『試験管のなかの生命──細胞研究入門』 (岩波新書)
1977 日本発生生物学会会長 * 1983年まで
1981 国際発生生物学会会長 * 1985年まで
1984 岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所所長に転任
1985.4 京都大学名誉教授
1989 岡崎国立共同研究機構長 * 1990年まで
国際発生生物学会ロス・ハリソン賞
アルコン賞(眼科学)受賞
1990 紫綬褒章受章
1991 国際生物科学連合副総裁 * 1996年まで
1993 JT生命誌研究館館長 * 2003年3月まで
1994 『からだの設計図──プラナリアからヒトまで』 (岩波新書)
1995 文化功労者
1999 勲二等旭日重光章受章
2000 『 アルマ・マーラーに恋した生物学者──生命の響き』 (哲学書房)
2002 京響友の会会長
2007 文化勲章受章
2008 伊丹市名誉市民、財団法人京都市音楽芸術文化振興財団理事長
2009 京都市名誉市民
2017.1 岡田節人先生 逝去

*著作は一部のみを掲載しています。

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