VOL.12 根井 雅弘 教授(京都大学大学院経済学研究科)

VOL.12 根井 雅弘 教授(京都大学大学院経済学研究科)

人びとの経済活動を研究対象に、社会問題を解決する方途を探ってきた経済学。アダム・スミスが「国富論」を著して以来200年を超える歴史のなかで数多の経済学者が思索を重ね、理論を打ち出してきた。その発展と進化の軌跡を精査して埋もれた学説を掘り起こし多様な思想を紹介することで経済学の発展に寄与する学問──
それが、根井教授の究める現代経済思想史である

「過去の経済学者たちが生きたのは、どのような時代だったのか。彼らは社会のなにを問題視し、どのような方法で研究を進め、どんな思想を育んだのか。残された著作や資料を手がかりに研究しています」と根井雅弘教授。学界では異端とされていた学者にも注目して、その思想を掘り起こしてきた。

多様な思想を包含した経済学こそが、社会問題の解決に貢献しうる

どのような学問にも、学説や理論の流行、はやりすたりがある。経済学の歴史においても、「主流派」とよばれるいくつかの学説や理論があり、研究者集団が存在した。「主流派」の学説はその時代の政策にも影響を与え、権威をもつ。しかし、ある時点での「主流派」は、不況や失業などの解決できない問題の発生を契機に、別の学説や理論を中心に形成された新たな「主流派」に取って代わられる。


  「主流派」経済学の変遷と代表的な経済学者

現在ではアメリカの経済学が「主流派」を形成し、そこに属さない「異端派」の研究の評価は総じて低い。このような状況に、根井教授は危惧を抱く。「経済学には200年を超える歴史と研究の集積があって、その思想はけっして一つではありません。そもそも経済問題は、一人の経済学者の思想のみで解決できるほど単純ではない。経済学は多様だからこそ価値があるのです」。

自分の理論と他者の考えとを比較して、広い視野から客観的に評価する姿勢が不可欠だと根井教授は主張する。多様な思想を知ることで、研究者が「自分の学説が絶対に正しい」という原理主義的な思考に陥る危険を避けられると考え、発信を続けている。

評伝を書くように、経済学者の人生に寄り添い、思想を掘り起こす

経済学史研究に取り組むときには、「一人の経済学者のある一時点のみをみるのではなく、その一生のすべての仕事を射程に入れ、できるだけ偏りなく評価することを心がける」という。一つの思想を一生涯にわたって保持する経済学者はまれで、程度の大小はともかく、思想上の転機を必ず迎える。ある時点だけでの評価では、価値を見誤ることになるからだ。

とりあげる経済学者が主流か異端かは、もちろん問わない。時代背景、社会の状況、他の研究者の思想による影響にまで視野を拡げて分析する。この根井教授の研究スタイルは、大学院の博士課程3年のときに発表した「現代イギリス経済学の群像──正統から異端へ」(岩波書店 1989年)において、すでに確立していた。異端とされていたマイナーな研究者たちの業績と思想を掘り起こし、彼らと主流派との対立、相互の影響に注目することで、その研究や思想の特徴を浮き彫りにした。学派に囚われていた経済学界に新風を吹き込んだこの研究は、高い評価を得た。

学問の発展には、現時点での真理や通説を疑う姿勢が不可欠

100年以上も前の学説を研究することが、なんの役に立つのかと問う学生もいる。現代にも著名な経済学者はたくさんいる。「しかし、50年、100年、200年を超えて歴史に名を残す思想家・研究者となると数えるほど。特筆すべきは「国富論」を著して「経済学の父」とよばれるアダム・スミス(1723-1790)や、経済学に革命的な発展をもたらしたとされるジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)。彼らの思想や理論は現代社会にも大きな影響力をもっていますから、たいへんな価値があると考えるべきです」。

歴史を重視することは、現代の経済理論の軽視を意味するわけではない。とはいえ現代の学説のみを追うだけでは、視野はせばまるばかりと指摘する。「残念ながら現在の経済学では、現時点での主流派の学説に基づいて編纂された教科書に沿って講義が行われ、その教えに則って論文を書けば博士号が得られる教育が体系化されている」と嘆く。

古典についても先学者が解釈したモデルだけを学び、原典を読もうとしないことも問題視する。「経済学には、通説を鵜のみにせずに検討を重ねることで進化した歴史がある。現在の教科書で真理とされている事柄が、数年後にはくつがえる可能性すらあるのです。一方で古典には、多様な可能性がある。歴史の評価に耐えて残っているのは、価値があるからこそ。この思想を偏りなく評価して発信することで、経済学の発展につなげたいのです」。

世の中にあふれる誤解を正し、過去の思想を現代に活かす道を探る

社会に流れる誤った言説を正すことも、経済思想史研究の重要な役割だ。たとえば、1930年代の世界恐慌に直面し、その解決策を模索したケインズの思想は、本来の主張がゆがめられて都合よく利用されることもある。2006年ごろの不況や金融危機の折にケインズの学説が喧伝されたときには、経済思想史研究者として危惧を抱き、警鐘を鳴らした。

「ケインズの理論の実践として、赤字国債を発行してでも公共投資を拡大して景気回復をはかる方策が知られます。しかしケインズが主張したのは、「人びとがお金を所有することには、将来への不安をやわらげる効果がある」ということ。不安要素が消えない限り、人はお金を使おうとはしない。不況の究極的な原因はそこにあると考えていた。財政支出を拡大しても、不確実性がなくらない限り、完全な回復はないというのがケインズの思考法なのです」。経済学は、世の中の価値観やイデオロギーに影響を受けやすい面もある。根井教授は、原典からていねいに学び、発信することで、正しく現代に活かす道を示すことにも取り組んでいる。

研究者人生を導いてくれた恩師たちとの出会い


シュンペーターが25歳のときの処女作「理論経済学の本質と主要内容」の初版本は世界に800冊しかない稀覯本。「ワルラスの一般均衡理論の意義を、ほとんど数学を用いずに説明したものです。伊東光晴先生にゆずっていただきました」

「京都大学の「自由の学風」と、いい先生方と出会ったおかげで現在のわたくしがある」という根井教授。研究生活の「恩人」として、京都大学大学院時代に学んだ故菱山泉名誉教授、伊東光晴名誉教授、オーストリア生まれの経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(1883-1950)の名をあげる。

根井教授はシュンペーターへの関心から経済学を始め、彼が高く評価したフランスの経済学者フランソワ・ケネー(1694-1774)の研究を志して京都大学大学院に進学。研究者としての心構えは菱山先生から、ケインズ経済学は伊東先生から多くを学んだという。この二人がケンブリッジ学派という研究集団に造詣が深かったことから、関心はイギリスの経済学へと向かう。

最初の研究成果は、イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャル(1842-1924)の著作を読むなかで生まれた。「シュンペーターの思想と対照的な思想が随所にみえて、二人の対立は明確だと感じました。それを菱山先生に話したら、「おもしろいから論文を書いたら」と勧められたのです」。シュンペーターの思想形成にマーシャルが与えた影響を分析した論文は菱山先生の激賞を受け、京都大学の「経済論叢」に掲載。最初の著作につながった。26歳のときのことだ。

マーシャルの「冷静な頭脳と温かい心」という言葉は、根井教授が経済問題や経済思想を考察するときの指針だ。「もともと数学者だったマーシャルは、貧富の格差に憤りを覚える「温かい心」をもちながら、過激な社会運動による急進的な改革には与せずに問題を分析する「冷静な頭脳」をもちあわせていた。わたくしもそうありたいと思っています」。

幅広く、決めつけずに考えることで、人生の可能性は無限に拡がる

京都大学への入学をめざす学生たちに、根井教授はあえて苦言を呈す。「こんな職業に就きたいという目標はもちろんあっていいですが、最終的にどんな人生を歩むことになるかは誰にもわからないということも、頭に入れておいたほうがいいですね」。金融工学を志して経済学部を選ぶなど、実利主義的な関心で入学する人もいるが、「一生の仕事がそんなに早くから決まるのだろうかという気がします」とも。

フランスの経済思想を学ぼうと京都大学大学院に入学した根井教授は現在、イギリスやアメリカの経済学を専門に、現代経済思想史を研究している。「このようなことはよくあることです。無限に拡がっている可能性を、みずからせばめることはない。そんな人生はつまらないですよ」。

本棚から一冊

 J. S. ミル「自由論」(1859)──多様性への寛容さこそが自由を保障する

「若い人たちにぜひ読んでほしい本」と、イギリスの思想家であり経済学者であるJ.S.ミル(1806-1873)が自由について考察する本を推薦する。「「自分とは違う意見に対する寛容な態度こそが自由につながる」というメッセージが書かれています。これは現在でも真理だと思います。古典から多様な思想を学び、新しいものの見方を養うわたくしの研究とも重なります」。

わたくしのリラックス法


ふだんよく聴く音楽のCD。クラシックのみならずジャズのアーティストの作品も並ぶ

クラシックの味わい、ジャズの魅力  

モーツァルト、ブルックナー、マーラーなどクラシック音楽のファンで、音楽関係の書評も多く手がける根井教授は、20世紀を代表する指揮者、カラヤンとフルトヴェングラーの演奏をよく聴くという。「二人はともにベルリン・フィルハーモニーの首席を務めましたが、その演奏スタイルは対照的でした。指揮者の生きた時代や人生がわかると、演奏の味わい方も変わります」。

最近では、ジャズやシャンソンなども聴く。「音楽家の知り合いができて、ライブハウスにも通うようになりました。クラシックの演奏会は飲食不可ですが、ジャズは肩肘はらずに聴ける魅力がありますね」。

取材日:2012/11/12

プロフィール  


ジュニア向け新書の書影

1962年宮崎県生まれ。1985年、早稲田大学経済学部経済学科卒業。大学ではワルラスの一般均衡理論を研究、18世紀フランスの経済学者フランソワ・ケネーの研究を志す。若い頃ケネー研究家だった菱山泉京都大学名誉教授に憧れて京都大学大学院に入学し、菱山名誉教授と伊東光晴名誉教授のもとで学ぶ。その後、ケインズ、シュンペーターが活躍する現代経済思想史の研究に向かう。1990年、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。2000年、37歳という異例の若さで京都大学大学院経済学研究科教授に就任。マーシャルが築いたケンブリッジ学派を中心としたイギリス経済思想史が専門。

著書に、複数の経済学者の理論、思想と生涯を「主流派」経済学者との対立から描きだした「現代イギリス経済学の群像――正統から異端へ」(岩波書店 1989年)、「マーシャルからケインズへ──経済学における権威と反逆」(名古屋大学出版会 1989年)、「シュンペーター──企業者精神・新結合・創造的破壊とは何か」(講談社 2001年)、「経済学の歴史」(講談社学術文庫 2005年)など多数。とくに「高校生などの若者に経済学の楽しさと難しさを知ってほしい」と執筆したジュニア向けの経済学の新書は、ていねいな解説と平明な文章でわかりやすいと高評価を得ている。