野生チンパンジーとその子どもの死についての事例報告

野生チンパンジーとその子どもの死についての事例報告

2010年4月27日


左から松沢教授、林美里助教

 松沢哲郎 霊長類研究所教授らの研究グループの研究成果が、4月27日に米国科学誌「カレント・バイオロジー」誌に掲載されました。

 野生チンパンジーが死児を大事に持ち続け、ミイラになるまで持っていたという長期継続研究から明らかになった3例の報告です。

  • 論文名
    "Chimpanzee mothers at Bossou, Guinea carry the mummified remains of their dead infants" by Biro, D., Humle, T., Koops, K., Sousa, C., Hayashi, M., and Matsuzawa, T.
    「死んだ子どものミイラを運びつづけるギニア・ボッソウにすむチンパンジーの母親たち」
    ドラ・ビロ(オックスフォード大学)、タチアナ・ハムル(ケント大学)、カトリーナ・コープス(ケンブリッジ大学)、クローディア・ソウザ(新リスボン大学)、林美里、松沢哲郎(京都大学霊長類研究所)

研究成果の概要

 西アフリカのギニアにあるボッソウ村周辺では、30年以上にわたって野生チンパンジーの調査が継続されている。村に近接した山にすむボッソウのチンパンジーの群れは、世界遺産のニンバ山からサバンナで隔てられ、20人前後という少数のメンバーで構成されてきた。本論文は、ボッソウの小さな群れで観察された、子どもの死に対するチンパンジーの母親の行動について、3つの事例を報告している。

 1992年、2歳半の子ども(ジョクロ)が呼吸器系の病気で死亡した。数週間で死体は完全にミイラ化し、母親のジレは27日以上も子どもの死体を持ち運んだ。

 2003年末の乾季には、ボッソウで呼吸器系の伝染病が流行した。5人のチンパンジーが死亡して、群れのメ ンバーは19人から14人に激減した。死亡したチンパンジーの中には、1歳のジマトと、2歳半のベベという2人の子どもが含まれていた。母親のジレとブアブアは、それぞれ68日と19日にわたって死んだ子どもの体を運びつづけた。


図1: 死後1日たったベベの死体を運ぶ
母親のブアブア

図2: 死後17日たったジマトのミイラ
を運ぶ母親のジレ


図3: 回収されたベベのミイラ

 3例とも、子どもの死体は完全なミイラになった。死亡から数日で体はふくらんだあと、次第に乾燥していった。毛はすべて抜けてしまうが、乾燥した丈夫な皮膚に覆われて、体は原形を保っていた。回収されたベベの体(図3)は、歯が数本抜けただけのほぼ完全な状態だった。

 3例とも母親は、つねに子どもの体を持ち運び、子どもの毛づくろいをし、体にたかるハエを追い払った。ハエを追うのに道具を使った例も2回観察された。このような母親の行動は、地面の上に放置した場合では数日内におこるであろう死体の腐乱を防ぎ、ミイラ化を促進した可能性がある。

 群れの他のメンバーは年齢や性別に関係なく全員が、子どもの死体に触ったり、手足を持ち上げたり、においをかいだりという行動をみせた。日数がたつと、母親から離れた場所まで、子どもや若いチンパンジーが遊びの中で死体を持ち運ぶようにもなった。ミイラを引きずって遊んでいる子どもが近くを通るときに、その母親が体を動かしてミイラに触れないようにするという動画内の1例をのぞいて、
死体への忌避的な行動は観察されなかった。特に死亡後数日は強い腐敗臭がただよい、見かけも生きているときとはまったく違ってしまうにもかかわらず、群れの他のメンバーは攻撃的な行動もせず、非常に寛容だった。

 母親がいつ子どもの体を運ぶのをやめるのかについては、偶然の亡失以外では、生理的な変化が考えられる。通常、出産後に授乳をしている期間は生理周期が止まっている。子どもが死んだことで授乳が止まり、生理周期が再開して繁殖可能な状態になる。次の子どもの繁殖に備えるために、前の子どもの体を運ぶのをやめるという生理的・心理的なメカニズムが働いている可能性がある。それにもかかわらず、ジレという母親が長期間子どもの体を運びつづけたのには、ジレにとってジマトが第8子で子育ての経験が豊富だったことと、ジマトが死んだ年齢が幼かったことも関係しているだろう。

 母親のジレやブアブアは、どこまで子どもが死んだことを「理解」していたのだろう。特に死亡直後では、死体がまだ生きた子どもであるかのように毛づくろいをする行動がみられた。だが、体がもう動かないということも母親は十分にわかっていたようだ。子どもの手足をつかんで引きずるように運んだり、肩と首の間に子どもの手足をはさんで背中にのせて運んだりという、子どもが生きているときには観察されなかった行動がみられた。

 ボッソウで子どもが死亡した3事例すべてで、母親が子どもの死体を運びつづけたということは、この行動がボッソウの群れの中では稀なものではなく、観察学習などで受け継がれている可能性もある。だが、絶滅に瀕したボッソウのチンパンジーのためには、このような悲しい出来事がこれ以上おこらないように祈るばかりだ。

 本論文の補助データと動画は、雑誌のホームページ(http://www.cell.com/current-biology/home)からみることができる。また、霊長類研究所のホームページ(http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/press/20100427/index-j.html)でも1992年の事例についての動画とパンフレットをみることができる。論文の補助データとして、子どもが死亡にいたるまでの経緯について記載されている。ベベという子どもは、2003年12月30 日の死亡前、12月2日から13日まで母親と離れて単独でいるところを10日に研究者に発見された。なぜベベが生きたまま母親に見放されたのかは不明のままだ。発見時には衰弱していたベベだが、母親と再会して体調も回復傾向にあったが、25 日以降徐々に食欲がなくなり、衰弱が進んで死亡に至った。

 本論文とともに、飼育下で老衰のため亡くなったチンパンジーの死亡前後に、他のチンパンジーどのような行動をみせたかについての報告も掲載される。ヒトにもっとも近い生物で あるチンパンジーは、死についてどのように理解しているのか。死と直面した際の彼らの行動を詳細に記述して知見をつみかさね、ヒト以外の霊長類で初の科学的な死生学(Thanatology)への第一歩となる画期的な報告といえるだろう。

 

  • 朝日新聞(4月27日 30面)、京都新聞(4月27日 1面)、産経新聞(4月27日 22面)、中日新聞(4月27日 24面)、日刊工業新聞(4月27日 34面)、日本経済新聞(4月27日 38面)、毎日新聞(4月27日 27面)および読売新聞(4月27日 1面)に掲載されました。