令和元年度学部卒業者への祝辞(2020年3月24日)

本日、京都大学を卒業される2,777名の皆さん、まことにおめでとうございます。教職員一同、皆さんのご卒業を心からお祝い申し上げます。あわせて、今日の卒業を迎えるまでのご家族および関係者の皆様よりいただいた数々の厚いご支援に対し、心より御礼申し上げます。1900年に第1回の卒業式を迎えて以来、120年にわたる京都大学の卒業生の数は皆さんを含めて214,388名になりました。

さて、皆さんは入学以来、どのような学生生活を送ってきたでしょうか。本日はぜひ、この数年間京都大学で過ごした日々のことを思い出してください。厳しい受験競争を勝ち抜いて入学した皆さんは、京都大学にどんな期待や夢を抱いていたでしょうか。今日、卒業を迎えるまでの数年間に、それは叶えられたでしょうか。それとも、その夢は大きく変貌を遂げたのでしょうか。そして、皆さんがこれから歩んでいこうとされる道は、そのころの夢とどうつながっているのでしょうか。

これから日本はSociety5.0(人間中心の超スマート社会)を目標に歩んでいきます。そこではICTが縦横に張り巡らされ、モノがインターネットで繋がれます(IoT)。大量の情報がAIによって分析され、効率の良い暮らしが可能になります。これまでのように天然資源や製造物ではなく、情報資源、すなわち知識を共有し集約することで様々な社会的課題を解決し、新たな価値が生み出される「知識集約型社会」が到来します。経済も人の動きもより活発になり、分散や循環が社会や産業を動かす力となります。そういう未来社会では、多様性や創造性のほかに、グローバルな倫理観に基づく自己決定力や調整能力が必要とされるでしょう。

これからの社会では、フィジカルな空間とバーチャルな空間の融合が顕著になることが予想されます。人間の思考が機械の演算と融合し、生物としての基盤を超越し、人間と機械、現実世界とバーチャルリアリティとの間に境界が見えなくなるかもしれません。実は、こういった時代の到来は今からちょうど100年前に予想されていました。「ロボット」という言葉は、チェコスロバキアの作家カレル・チャペックによって1920年に出版された戯曲『R・U・R(エル・ウー・エル)―ロッスムのユニバーサルロボット』に初めて登場しました。チェコ語にあるロボタという「賦役」を意味する語から作られた造語です。この劇は、RUR社のロボット工場の社長室から始まります。部屋の壁には何枚かのポスターが貼られており、「一番安い労働力―ロッスムのロボット」とか、「新製品―熱帯用ロボット、一体150ドル」とか、「誰もが自分用のロボットを」といった宣伝文句が並んでいます。この会社は、見た目が人間とそっくりなロボットを作ることに成功しました。社長のハリー・ドミンは、労働から人々を解放したいという夢を抱き、ロボットによって生産性を向上させ、すべての価格を引き下げることでその夢を実現できると信じていました。しかし、ロボットは労働効率性を人間以上に高め、もはや人間のために働かなくなりました。やがて、ロボットたちは、「ロボットのように有能ではない人間は、寄生虫のように見える」と言い出します。会社の幹部たちは、人間の生活から労働というものをなくした結果、「いまいましい楽園」をつくってしまったことに気づきます。人間は仕事のせいで年を取ることも、子どものために年を取ることも、貧困のために年を取ることもなく、実を結ばない花のように散っていく運命になったのです。彼らは非生産性こそが人間に残された最後の可能性だと気づき、人々が心労と労働に戻るように願いますが、すでにロボットは人間を支配しようと蜂起しました。著者のチャペックは、「人間でありたいのなら、支配しなければならず、人間を殺さなければならない」と書いています。まさに、人間のように作られたロボットたちはそのような人間らしい道を選んだのです。その結果、人間は絶滅の危機に瀕し、自分たちの作り方を知らないロボットもやがて滅びる運命にあります。チャペックは、最後にたった一人残った人間、建築士のアルクイストにこう言わせます。「われわれが作り、建てたものは何の役にも立たない。それなのに生命は滅びないのだ。ただわれわれだけが滅んだのだ。」何と、この内容は現代にもぴったりと当てはまりそうな気がします。この度、内閣府が公募するムーンショット型研究開発制度―これはアメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行を実現させたアポロ計画に模して名付けられました―では、六つの目標のうち二つがロボットに関連しています。これらは2050年までに、すなわち30年後に達成することが期待される目標ですが、一つは複数の人が遠隔操作する多数のアバターとロボットを組み合わせることによって、大規模で複雑なタスクを実行するための技術開発です。もう一つは人が違和感を持たない、人と同等以上な能力を持ち、人生に寄り添って一緒に成長するAI ロボットの開発です。人類の夢は100年たっても変わることなく、科学者たちはその夢をかなえる技術を開発しようとしているのです。違うのは、100年前はサイエンス・フィクションだった夢が、今は実現可能な目標として計画されようとしていることではないでしょうか。

しかも、AIの開発によってすでに多くの仕事が代替されようとしており、これまでの労働中心の社会とは違う価値観が芽生えてきています。そのため、科学技術だけでなく、人間や社会について深く考えることが必要だという認識が広まっています。1995年に作られた「科学技術基本法」にも、この度の改訂作業で人文・社会科学の重要性とイノベーションの創出という文言を並べて入れようという議論が起こっています。今こそ、私たちは「人間性とは、人間が求める幸福とは、いったい何なのか」を強く意識しながら技術開発を進めなければならないと思います。

昨年亡くなられた梅原猛先生は、ずいぶん前から哲学の復興、日本からの哲学の創出の必要性を説いておられました。1968年に出された『哲学する心』のなかで、「哲学は自分の頭で考えることである。しかも、それは、過去の哲学の学説や、概念について考えることではなく、今の世界において、人類はどう生きてゆくべきかを考える学問なのである」と述べています。そして、現在まで人間の生活を律してきた既成の思想への確信が崩れようとしていると警告を発しています。「人間とは何か」という問いに対して、ヨーロッパの哲学は「理性を持つ動物である」と答えます。しかし、理性の思想に基づいたヨーロッパ文明は力の文明、支配の文明として地球上で多くの殺戮を繰り返してきました。その文明を受容して戦争の道を突き進んだ近代日本も例外ではありません。先ほどのチャペックの「人間でありたいのなら、支配しなければならず、人間を殺さなければならない」という言葉を思い出します。梅原先生はソクラテスやデカルトによって「魂の不死」の思想が普及し、不死が人間の前提となってしまった現在、改めて死の哲学を再興しなければならないと説きます。人間は他の生命とつながっている存在であり、このつながりの自覚を回復するとともに、人間の存在を意思ではなく感情を新しい原理に据えてとらえ直さなくてはならない。それこそが平和の哲学であり、人類の第一の義務を平和に置き、そこから人間を新しくとらえ直す哲学が、人類の生存のために必要だというのです。ヨーロッパの哲学者たちは、認識や存在や、価値や欲望について深い思弁を重ねたが、平和の問題についてそれほど深くは考えなかった。日本の哲学は東洋のもつ深い生の知恵をヨーロッパ哲学の教える明晰な論理と対話させつつ、現代の危機に対する答えを自らの中に創っていく必要があるというのです。

京都大学がその必要性に強く共鳴するのは、戦前から西田幾多郎や和辻哲郎などによる独自の哲学を生み出してきたからでもあります。また、3年前に文部科学省より指定国立大学法人の指定を受け、日本の学術界における人文・社会科学分野の牽引役を担うことになりました。そこで、「人文・社会科学の未来形発信」という重点課題を担うユニットを学際融合教育研究推進センターに設けました。目指すのは、グローバル化と多極化が進行する世界情勢を視野に入れ、西洋一極集中を脱し、人間・社会・環境・自然を総合的に理解する、新たな俯瞰知としての人文知・社会知の再構築です。すでに学際的な研究会やシンポジウムをヨーロッパやアジアで多く主催し、その討議を主導しています。肝心なことは、このような動きを今日卒業していく諸君にも知ってもらい、ぜひ分野や職域を超えて議論に参加し、人間や社会に関する考え方を深めてほしいということです。

これからの社会では、これまでにはない人間観や自然観が必要となります。先端的な科学技術にすべてを依存するのではなく、これまで時代遅れと見られてきた考え方を拾い集めて未来を見つめ直すことも重要になるでしょう。温故知新、故きを温ねて新しきを知ることは、ますます必要とされています。現代は情報技術やコミュニケーション技術が急速に発展し、いつでもどこでも、簡単に既存の知識にアクセスできるようになりました。膨大な映像が情報機器を通じて無料で流され、もはや、書物は知識を得る唯一無二の手段ではなくなりました。しかし、社会を先導するイノベーションには科学技術だけでなく、人文学的、社会科学的な学知と共に確かな人間観が不可欠であり、それを総合的な学術研究の蓄積から見直さなくてはなりません。今こそ、「京都学派」と呼ばれた京都大学が誇る奥深い思考の水脈を開くときが来ているのだと思います。

現代の問題は、「将来は現在より良くなるはず」という希望を支える資本主義の発展法則、あるいは「経済成長は至高の善」という理念が崩れ始めているということでしょう。私が京都大学の学生だった1970年代初頭はまだ日本が高度成長時代で、すぐ先に明るい未来が見えているような気がしていました。大阪で万国博覧会が開かれ、科学技術によって次々に新しい可能性が切り開かれようとしていることが実感できました。しかし、やがて公害問題や温暖化などの環境劣化が、地球規模で急速に進んでいることが明らかになりました。その後、「持続的な開発」が謳われ、地球の劣化を防ぐための国際協約がいくつもできました。地球の資源は有限であり、人間社会も物質的には限界があることが共通理念となったのです。日本の産業界もパリ協定で謳われたSDGs(持続的な開発目標)を基に、企業倫理や戦略を掲げるようになりました。これからの社会には、地球規模で生物多様性や人間社会を包摂的にとらえる思考方法が不可欠になります。

今日卒業する皆さんも、これまでに京都大学を卒業した多くの先輩たちと同じように自由闊達な議論を味わってきたと思います。その議論と学友たちは、これからの皆さんの生きる世界においてきわめて貴重な財産になるでしょう。京都大学には創造の精神を尊ぶ伝統があります。まだ誰もやったことのない未知の境地を切り開くことこそが、京都大学の誇るべきチャレンジ精神です。今日卒業する皆さんのなかにもさまざまな突出した能力を身に着け、すでにそれを発揮して活躍している方が多いだろうと思います。京都大学で磨いた能力を示し、試す機会がこれからはきっと多くなることでしょう。しかし、忘れてはならないのは、自分と考えの違う人の意見をしっかりと聞くことです。しかも複数の人の意見を踏まえ、直面している課題に最終的に自ら判断を下して立ち向かうことが必要です。このとき、京都大学で培った「対話を根幹とした自由の学風」がきっと役に立つはずです。

京都大学は「地球社会の調和ある共存」を達成すべき大きなテーマとして掲げてきました。しかし、現代社会ではこの調和が崩れ、多様な考えを持つ人々の共存が危うくなっているのも事実です。皆さんもこれからの人生でこの難題に直面する事態に出会うことでしょう。そのとき、京都大学の自由な討論の精神を発揮して、果敢に自らの課題に向き合ってほしいと思います。皆さんがこれから示すふるまいや行動は、京都大学のOB、OGとして世間の注目を浴び、皆さんの後に続く在学生たちの指針となるでしょう。これから皆さんの進む道はさまざまに分かれていきます。しかし、将来どこかで再び交差することがあるはずです。そのときに、京都大学の卒業生として誇れる出会いをしていただけることを私は切に願っております。

本日はまことにおめでとうございます。

令和2年3月24日
京都大学総長
山極 壽一

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