ノーベル物理学賞受賞者・赤﨑勇博士と京都大学 -大学時代に育まれた研究者の芽-

 2014年、「明るく省エネルギーな白色光を可能にした効率的な青色発光ダイオードの発明」に対してノーベル物理学賞を受賞した赤﨑勇 博士。度重なる実験失敗にもめげず、他の研究者が断念した窒化ガリウムの可能性を信じ、こだわり続けた末の栄誉だった。2011年にアメリカ電気電子学会のエジソン賞を受賞した際は「persistent」な研究者と評された。

 1952年に京都大学理学部を卒業した博士は、今も取材等の折にふれ、京都という地そして京都大学への強い愛着を語る。そして粘り強い研究生活を支えた学究精神は、京都大学の自由闊達な学風から影響を受けたとも。今回はそんな赤﨑博士の大学時代の思い出をたどってみた。

幼い頃に芽ばえた京都への憧れ

赤﨑勇 博士

-1929年、鹿児島県知覧町(現南九州市)で生まれ、鹿児島市内で育った。時々訪れる知覧の風景が、博士に京都への憧れが芽生えさせることになる。

 育ったのは鹿児島の市内でしたが、盆や正月などに本家のある知覧に行くことがありました。そこには武家屋敷があって、叔父や叔母たちから「ここは京都の庭をお手本に、京都から先生をお呼びして造ったのですよ」とよく聞かされました。その頃から何か、子供心に京都という言葉が残っていました。

 普段は鹿児島市内で過ごしているので、時々蘇る程度でしたが、私が旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に入ったときに、私の寮の同室に京都の中学から来た友達がいて、よく京都の話を聞かされました。小さい頃の思い出と重なって、ますます京都に思いが募っていきました。

-京都への思い入れは現在も

 卒業してから神戸や東京に勤めましたが、京都にはよく来ていました。友達がいることもありますし、京都独特の雰囲気があります。名古屋大学の先々代の松尾稔 総長は京大の工学部を出られた方ですが、先生もよく「2週間に1回は、特に用事はなくても京都に行くんだ」とおっしゃっていました。私もその気持ちはよくわかります。6、7年前に大手術をした後ちょっと良くなったときにも京都へ来て、何の目的もなく京大のあたりをずっと歩いたんですが、百万遍のあたりに、かつて友達と長時間座っていた古い喫茶店が残っていました。京大が京都に良く溶け込んでいるというか、一体になっているこういう町は少ないんじゃないでしょうか。ちょうど「アルト・ハイデルベルグ」というドイツの学生歌がありますけれども、それに出てくるネッカー川が鴨川に相当するということで、よくそれにたとえられますけれども、ちょっと他の大学にはないようなそういう感じを私は持っています。

京都大学入学と同時に受けた言葉、そして決心

京都大学時代、社寺仏閣巡りを楽しむ赤﨑博士(左端、大文字山、1950年)

-1949年、当時難関(ときいたことがあります※)の入学試験を突破して、晴れて京都大学理学部に入学。入学式当日に、博士は京都大学の学風を思い知らされる言葉に出会う。

 今とは学校の制度が違って(旧学制)、入った途端に研究室に配属になるんです。入学式のその日、式が済んだ後、私が所属する研究室の先輩が、銀閣寺から哲学の道を通って南禅寺のあたりまで歩きながら、歓迎会兼花見を催してくれました。その途中で先輩が「大学というところは自分で勉強するところだ。大学は教えるところではなく自分でつかみ取るところだ」と言われたのを鮮明に覚えています。大学というところは何かを教えるところじゃなくて、将来学生たちが何かにぶつかったときに、どうやればいいかという問題解決能力を3年間につくることだ、そのために大学は何でも準備すると、そういうことを当時よく言われていました。その時に、「あ、これでやっと僕は大学生になれたんだ」と思いました。その印象は非常に強いですね。だからその後も手取り足取りということは決してありませんでした。卒業研究ですら割に自由勝手にやっていました。私だけではなくて、私の周りはみんなそんな感じでした。

-そしてさらにこの年、その後の博士の研究生活に大きな影響を与える出来事が起こった。

 その年、湯川秀樹先生がノーベル物理学賞を受賞されるという快挙があり、ノーベル賞という言葉すら忘れかけていた、戦後復興途上の日本の国内が明るくなったような気がしました。湯川先生も、先生のお仕事も、私にとっては雲の上のことで、自分には全く無縁のことですけれども、いつか、何か本当に小さいことでもいいから、今まで誰もやっていないことを自分はやろうと、その時、近衛通りのプラタナスの道を歩きながら決心したことを思い出します。それから20年後に青色発光ダイオードがない、いややったけれども誰もできていないということを知ったとき、これこそ自分の仕事だというふうに、この時のことを振り返っていました。

基礎物理学研究所前に立つ湯川秀樹先生(1954年頃)

当時の医学部構内(1957年秋)

敗戦後の暗い世相と当時の大学生活

京都大学時代の赤﨑博士(1950年代前半)

-博士の京都大学在学期間は、上記の湯川博士のノーベル賞受賞に始まり、サンフランシスコ講和条約が締結された1952年まで。当時の京都大学はどんな雰囲気だったのか。

 入学したときの大学の雰囲気はすごくよかったです。戦後すぐで世の中は暗かったですが、大学の中は違いました。京都は空襲を受けておらず焼けてませんしね。私が焼け跡から来たせいもあるでしょうか、非常に立派な大学だと感じました。それに学生たちの士気も高かったです。私の周りの人は皆、口に出して言わずとも、日本の復興のために頑張るんだ、という雰囲気を持っていました。卒業する1年ぐらい前、ドイツが奇跡的な復興をしていました。それを見習えという感じがあって、私も、私の周りもみんな、多かれ少なかれ技術立国の役に立ちたいという意識がありました。

-最初の1年間は下宿生活だったが、2年目から吉田寮に移る。

 旧制高校の先輩に弁護士会の副会長をされていた方がおられて、今の熊野神社の西にちょっとした京風の邸宅がありました。何人も書生さんがいて、京大生の先輩も2人ぐらい下宿していました。食糧難の時代だったので、そこに来ないかと言われて部屋をお借りすることにしました。けれども下宿料を取ってくださらない。それが心苦しく辛かった。そうこうしているうちに先輩から吉田寮のことを聞いて入りました。吉田寮は自治寮で、2年生や3年生の先輩の方が何人かで面接されるんですが、当時は面接試験の倍率がすごかったんです。私は旧制高校時代も自治寮に住んでおり、心友は当時の寮時代の友達です。京大に行ってからも同じで、学部とか学科とか関係なく、心友は寮の友達です。

当時の吉田寮(1954年)

-当時の吉田寮はさながらサロン?

 吉田寮は建物こそ古かったけれども、非常に立派な寮でした。当時は個室で部屋は廊下より一段高くなっていて、非常にいい雰囲気でしたね。私はクラッシックが好きなのですが、レコード室があったりクラッシックレコードを聴く部屋もあって存分に聴けました。ほかに茶室があったり、また各種の新聞を取り寄せてくれていて、ちょうど図書館のような役割をしていました。当時は守衛さんが2人いました。北、中、南寮三つあって、中寮に住んでいました。何号室か向こうに心友がいると夜まで話し込んでいても1分で自分の部屋に帰れる。事務室に事務員の方が3人ほどいて、サポートしてくれていました。

 よく寮の友達と一緒に桂離宮とか修学院離宮に行きました。当時、普通なら誰も行けなかったんですが、建築学の先生が紹介してくださったお陰でそういう所へ行けたり、あるいはみんなで比叡山を越えて琵琶湖へ渡ったり、いろんなことをしていました。勉強の面で特にプラスになったことはないかもしれませんけれど。

北アルプスにて(1951年夏)

寮の自室にてレコードを楽しむ(1952年)

京大時代に培われた研究者としての姿勢

-博士のキャッチフレーズともなった「我一人荒野を行く」という姿勢は、京大時代に何かきっかけとなる出来事や出会いがあった?

 1964年から勤めた松下電器の東京研究所で光る半導体の研究をしていて、青色を誰もやっていないと気づきました。みんなやっていたけどやめたんです。そのときに初めて、これこそ自分の仕事だと思いました。湯川先生がノーベル賞を受賞したときに受けた衝撃と、なにか人がやれないことをやろうと思ったことが20年ほど経ってよみがえったわけです。ある程度の成果が出たときに国際会議に発表しましたが、反応がありませんでした。インタビューした記者に反応はなかったと答えると「一人なんですね」と言われました。専門の学会なのに窒化ガリウムで青色を研究しているという論文は全くない。「俺一人なんだな」と思いました。でも誰もやらなくても、一人でもやると言い続けました。

-博士に実験の大切さを教え込んだ教授は、理論と実験が相互に触発しながら前に進むことを、アウフヘーベン(止揚)という哲学用語を使って強調した。理系の学生といえども、人文系の学問にも興味を持っていた。

 もちろん人文系の学問にも興味を持っていました。それは旧制高校のときから当たり前のことで、誰でも持っていました。一年に少なくとも20冊は岩波文庫を読め、とか言われていましたから。旧制高校2年生の頃は大学は文学部に行こうと思っていたほどです。でもやっぱり数学、物理、化学が好きでしたから、理学部に進みました。研究にプラスになったかどうかは分かりませんが、少なくとも人生、人間の生き方には無関係ではない。読書というのは自分と対話すること。研究に直接プラスになるとかを考える以前の問題です。人格というか教養というか、そういうものの基礎になるのは読書です。これは文系、理系を問いません。それが私の考えです。

-赤﨑博士は高校生を対象にした講演などで「若い人は世界を舞台に考えることが大切」と話す。いつも世界の動きを意識すること、あるいは留学等で世界に飛び出すことが必要と説く。

 京都にしろ名古屋にしろ、若い人を親も離したがらないし、自分も離れたがらない。地元志向が強いんです、そういうのはだめだ、どこでも飛び出して行きなさい、活躍する舞台は無限にあるんだ、と口を酸っぱくして言っていました。自分が考えたようなことは、高校の中にはいなくても、京都や日本や世界にはきっと同じようなことを考えている人が一人ぐらいいる。それと同じで、世界は広いんだということを、よく学生に言っていました。こんな狭いところに閉じこもるな、ニューヨークでもどこでも出て行きなさい、と未だに言っています。

 

-ノーベル賞を受賞した青色発光ダイオードの研究は、直接的には赤﨑博士の京都大学在籍時に生まれたものではない。しかし博士自身が何度も語ってくれたように、自らの進むべき道を自ら切り拓く能力と意志力を育んだのは、京大の持つ自由の学風と「自学自習」の基本理念だったといえそうだ。

※旧制高校入学時(1946年)は、陸海軍士官学校生や外地の旧制高校、専門学校からの編入受験者が多く、競争率が高かった。3年後の旧制大学入試でもその影響は残っていたようである。

Profile

 赤﨑勇 博士は1929年鹿児島県出身。1952年本学理学部化学科を卒業以来、神戸工業株式会社ならびに株式会社松下電器東京研究所および名古屋大学ならびに名城大学において、種々の半導体の結晶成長と光電子素子開発に関して優れた業績を上げられました。とりわけ、従来、物性制御が困難であると信じられてきた窒化ガリウム(GaN)の研究に取り組まれ、高品質GaNエピタキシャル結晶成長とp型およびn型の電気伝導度制御を実現し、世界で初めてGaN pn接合青色/紫外LEDの開発に成功されました 。また、化合物半導体の結晶成長、基礎物性解明や光電子素子に関連する分野の研究者育成にも大きく貢献されました。

 同博士の研究は、光の3原色の構成要素として不可欠な青色発光を実現されたものであり、フルカラーディスプレイの根幹をなすものです。また、青色LEDと蛍光体の組み合わせによる白色LEDは、地球環境に優しい明りとして高く評価されています。

 その功績により、2004年に文化功労者として顕彰されたことに続き、2011年には文化勲章を受章されました。さらに2014年にはノーベル物理学賞の受賞という栄誉に輝かれました。

(インタビューは2015年5月15日(金曜日)に行いました。)

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