生きた細胞内のたんぱく質の構造と働きの観察に成功 - 細胞内たんぱく質の立体構造決定とヒト細胞でのたんぱく質観察の方法を開発 -

生きた細胞内のたんぱく質の構造と働きの観察に成功 - 細胞内たんぱく質の立体構造決定とヒト細胞でのたんぱく質観察の方法を開発 -

2009年3月5日

科学技術振興機構(JST)
京都大学
首都大学東京

 JST基礎研究事業の一環として、京都大学の白川 昌宏 教授と首都大学東京の伊藤 隆 教授らは、生きたままの細胞内でたんぱく質の形や働く仕組みを調べる新しい方法の開発に成功しました。
  これまで、ヒトなど高等生物の生きた細胞内のたんぱく質の形(立体構造)や働く仕組みを詳細に観察する方法がなく、精製したたんぱく質を使って研究されていました。
  同研究グループは今回、インセル(in cell)NMRという方法を使って、細胞内でたんぱく質の立体構造を精密に決めることに世界で初めて成功しました。またヒト細胞内のたんぱく質の立体構造や働く仕組みを調べる方法も開発し、細胞内で薬剤がたんぱく質に結合する様子や、たんぱく質が細胞内で不安定化することも初めて明らかにしました。
  今回の研究によって、これまで未知であった細胞内でのたんぱく質の形や挙動の解析が進み、新しい研究分野が開かれるものと期待されます。また、この方法によって細胞内のたんぱく質を標的とした薬剤の設計や、アルツハイマー病などのたんぱく質の変性によって起こる疾病の発症機構解明と治療に役立つものと期待されます。
  この研究成果は、2009年3月5日(英国時間)発行の英国科学雑誌「Nature」に2つの論文として掲載されます。

論文名:

  • "High-resolution multi-dimensional NMR spectroscopy of proteins in human cells"
    (ヒト細胞内におけるたんぱく質の高分解能多次元NMR)
  • "Protein structure determination in living cells by in-cell NMR spectroscopy"
    (インセルNMRによる生細胞内たんぱく質の立体構造解析)

研究の背景と経緯

 従来、たんぱく質の構造解析は精製した試料の結晶や水溶液を対象に、X線結晶解析法や核磁気共鳴(NMR)、電子顕微鏡を使って行われてきました。しかし、こういった試験管内(in vitro)で解析されたたんぱく質の構造や機能、性質は、たんぱく質の多くが実際に働く細胞内とは異なる場合がある、と指摘されてきました。細胞内は非常に多くの量と種類のたんぱく質、核酸、脂質で過密な状態であり、試験管内の環境とは著しく異なっています。そのため、細胞内のたんぱく質の構造や性質が試験管内とは異なっても不思議ではありません。しかし、細胞内のたんぱく質の構造や、構造に基づく作用機構を詳細に解析する手段はこれまで存在しませんでした。

図1: たんぱく質の構造解析を細胞内で行う必要性

試験管内(in vitro)で解析されたたんぱく質の構造や機能、性質は、たんぱく質の多くが実際に働く細胞内とは異なる場合がある。
したがって、たんぱく質の構造や機能を生きた細胞の中で解析することは非常に重要であるが、これまでは、そのような解析を可能にする手段が存在しなかった。

 細胞内のたんぱく質のNMRを測る「インセルNMR」という方法だけが、細胞内たんぱく質の立体構造情報を与えます。これはNMR観測可能な安定同位体で標識したたんぱく質を何らかの方法で細胞内に導入し、目的のたんぱく質を選択的に異種核多次元NMR法によって測定するものですが、これまで大腸菌の系で使われて興味深い結果が得られています。また2006年には白川教授と米国・ハーバード大学の研究グループが、アフリカツメガエルの卵母細胞を使ったインセルNMRを報告しています。
  しかし、細胞内のたんぱく質の立体構造を精度良く決定するための具体的な方法はまだ確立されていませんでした。また、医学、薬学、生命科学への応用が期待できるヒトなどの高等生物におけるインセルNMRについても、細胞への効率的なたんぱく質導入法がなかったため行なわれていませんでした。

図2: インセルNMRの測定

ヒト培養細胞に安定同位体標識したたんぱく質を導入したり、大腸菌の中でたんぱく質の発現を誘導したりして、細胞内の標的たんぱく質に特異的に安定同位体標識を行う。

この細胞試料の高分解能多次元NMR測定を行い、スペクトルを解析することによって、立体構造をはじめとするたんぱく質のさまざまな性質や機能を詳細に解析することができる。

研究の内容

 同研究グループの白川教授と伊藤教授らは、細胞内へのたんぱく質の導入法や測定・計算法を工夫することで、インセルNMRによる細胞内たんぱく質の新しい観察手法を開発しました。
  白川教授と杤尾 豪人 京都大学 准教授らは、細胞透過性ペプチドを付加したたんぱく質がpyrenbutyrateという薬剤で処理した細胞に効率良く導入されることを利用して安定同位体標識した3種類のたんぱく質をヒト細胞に導入し、高分解能な異種核2次元NMRスペクトルを世界で初めて測定しました。これによって細胞内たんぱく質を原子レベルで解析する道が開かれました。また、細胞に入った後で細胞透過性ペプチドがたんぱく質から切り離されることが、たんぱく質の細胞全体へのスムーズな分布を可能にし、良質なNMRシグナルを与えるのに必要であることを発見しました。これは細胞内への機能性たんぱく質導入という細胞工学の観点から重要な知見です。
  このヒト細胞のインセルNMRを用いることで、細胞内のたんぱく質分子全般にわたる詳細な構造や機能についての情報を得ることができます。本研究では、以下の5つの事象が研究できることを、実際の解析例を挙げて示しました。

  1. 細胞内、細胞外でのたんぱく質の構造の相違
  2. たんぱく質が細胞内の酵素の作用を受けて切断される
  3. たんぱく質が細胞内の他のたんぱく質と相互作用する
  4. 細胞に投与した薬剤が細胞内でたんぱく質と結合する
  5. 細胞内たんぱく質は試験管内よりも構造安定性が大きく低下しうる

 特に「4.」は、インセルNMRが薬剤設計・探索に応用しうることを示しています。また「5.」は、今までの通説を覆す可能性がある大きな発見です。
  なお、同研究は二木 史朗 京都大学 化学研究所 教授との共同研究として行われました。

 また、伊藤教授らはNMR測定法や構造計算手法を大幅に改良することで、生きた大腸菌内のたんぱく質の立体構造を決定しました。NMR測定は長時間を要するため、生細胞試料の短い寿命(例: 大腸菌試料で約6時間)や低い測定感度といった問題が、インセルNMRによる細胞内たんぱく質の立体構造解析を阻んできました。同研究では、従来法の10分の1程度の時間で同程度のNMRスペクトルの取得を可能にする迅速なNMR測定法と、たんぱく質の立体構造情報の解析を容易にする選択的安定同位体標識法とを併用しました。そして、自動高次構造計算法を用いて解析することにより、この問題点を克服しました。モデル試料として、高度好熱菌由来のアミノ酸66残基からなるたんぱく質を大量発現させた大腸菌を用いてNMR解析を行い、試験管内での解析精度に迫る「正確で高分解能な」立体構造を得ることに世界で初めて成功しました。

 図3: インセルNMRを用いて決定された、生きた大腸菌内の高度好熱菌TTHA1718たんぱく質の立体構造

図中左は、計算の結果得られた20個の立体構造をたんぱく質主鎖を重ね合わせて示したものと、立体構造の中でたんぱく質がどのように折りたたまれているかが分かるように、リボン図で表示しているものである。高精度で正確な立体構造を導き出すことに成功した。図中右は、試験管内の同じ試料について行った立体構造解析結果。

今後の展開

 ヒト細胞におけるインセルNMRについては、例えばアルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患において、病変細胞に蓄積するたんぱく質に適用するのが、興味深いでしょう。これらのたんぱく質は、病気にかかると凝集体を形成します。細胞内・外で、それらがいかなるメカニズムで凝集体になるのかといった疑問の多くは分かっていませんが、インセルNMRによって発病メカニズムの一端に迫ることが期待できます。
  同研究では、投与した免疫抑制剤が細胞内の標的たんぱく質と結合する様子をインセルNMRで観察することに成功しました。細胞へのドラッグデリバリーと細胞内での作用機構を共に検証できるので、薬剤設計・開発の重要なツールとなりうるでしょう。
  また、本研究ではユビキチンというたんぱく質が、細胞内では試験管内よりも立体構造安定性が大きく低下することを示しました。これは、これまでの理論的考察や試験管内実験を基に唱えられていた通説とは逆の知見です。今回の観察がたんぱく質の細胞内での構造安定性を直接示した最初の例であることを考えると、今後の研究により新しいたんぱく質像を提示できると思われます。
  細胞内たんぱく質の立体構造解析については、今回の大腸菌における成功を踏まえて、より複雑で高度な制御が行われている真核細胞の中でたんぱく質の立体構造を決定する必要があります。今回同時に、ヒト細胞におけるインセルNMR測定法が確立したので、同研究グループでは要素技術をさらに高度化していくことによって、ヒト細胞内たんぱく質の立体構造解析に挑戦していきたいと考えています。

図4: ヒト細胞のインセルNMRの応用

(例1)
インセルNMRを用いることで、ヒト細胞へのドラッグデリバリーと細胞内での作用機構を共に検証できるため、薬剤設計・開発の重要なツールとなりうる。

 

(例2)
また立体構造と共に、たんぱく質の細胞内での安定性を直接解析することが可能になり、新しいたんぱく質像を提示できるようになった

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。

戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域: 「生命現象の解明と応用に資する新しい計測・分析基盤技術」 
(研究総括: 柳田 敏雄 大阪大学 大学院生命機能研究科 教授)
研究課題名: 「磁気共鳴法による生体内分子動態の非侵襲計測」
研究代表者: 白川 昌宏 京都大学 大学院工学研究科 教授
共同研究者: 伊藤 隆 首都大学東京 大学院理工学研究科 教授
研究期間:平成16~21年度

JSTはこの領域で、生命系科学技術の発展の原動力である未解明の生命現象の解析に資する新たな計測・分析に関する基盤的な技術の創出を目指しています。上記研究課題では磁気共鳴イメージング、多重共鳴NMR、磁気共鳴力顕微鏡や多重電子共鳴法など、多様な磁気共鳴の技法を駆使し、生体内、細胞内のたんぱく質の機能・局在・立体構造を観察する新しい手法の開発を目指します。

 

  • 京都新聞(3月5日 26面)、科学新聞(3月13日 1面)、日刊工業新聞(3月5日 24面)および読売新聞(3月5日 3面および4月3日 13面)に掲載されました。