京大人気教員からのエール

京大人気教員からのエール

【以下の内容は過去の情報です】2006年オープンキャンパスは終了しました。

スポーツにおける意識と無意識

小田伸午 (京都大学高等教育研究開発推進センター教授)

 オープンキャンパスでは、京都大学の全学共通科目として行っている運動科学の授業の内容のさわりを紹介したいと考えている。ポーツ実践における意識と無意識、意識による思い違いというテーマで、「スポーツ科学でみたスポーツ動作の世界」と「選手の感覚でとらえ動きの世界」のずれについて述べてみたい。

  我々は何か上手くゆかないことがあると、何とか上手くゆかないものかと思い悩む。スポーツの動作でも、楽器の操作でもそうだが、身体のある部分の動きが上手く行かないと、その部分を直接意識して、なんとかなんとかと意識的に直そうとするものである。

  上手くいっている部分の動きに関しては、意識をおく人はいない。無意識で動作ができているので、わざわざ上手くいっていることに対しては、意識をおかないのが普通である。

  上手く行かないから意識をおくのであるが、意識をおくからうまくゆかない、ということもある。ただし、動作が上手くいっていないのであるから、何らかの改善をほどこさなければならない。

 では、どうするか。上手くゆかない部分から意識を外して、他の部分に意識をおくことで、結果的に上手く行かない部分が結果的に修正される方法を考えるとよい。非常に優れた技量を持ったスポーツ選手は、身につけようとする動作や、直そうとする動作に直接意識をおかない。何か別の部分に意識をおくことで、その部分に執着する意識を外して、結果的に動作を修正するコツを知っている。

 イチロー選手は、大リーグのシーズン中、上半身の力みが抜けなくて打率が下がってきたことがあった。そのとき、上半身から力みを抜こうとしてもなかなか上手く行かなかった。苦しみのなかで、イチロー選手は、膝から下の力みと上半身の力みが、自分のからだのなかで互いに関係していることに気がついた。「膝から下の力みを抜くように心がけたら、自然と上半身の力みは抜けて、打率が上がってきた」と語った(1)。

 短距離走において、ももを高く上げれば速く走ることができると信じてられてきた。地面から離れた脚が折りたたまれてももが上がって行くが、このときには、ももが上がる方向に力はかかっていないのだ。反対にももを下げる向きの力がかかっていなければならない。この時点で意識してももを上げる動作を行うのは誤りであり、素早くももが下がるように足を踏みつけてゆかねばならない(1,2)。

 ももが上がる局面において、ももを上げる向きの力をかけたいと思うのが人情である。しかし、これこそが思い違いである。国民的錯覚と言える。動きの向きと、力の向きが反対になっていることがあるのだ。動作の本質を、見た目でだまされてはいけない。スポーツ動作では、この種の錯覚、誤解が非常に多い。

  地面を後方に強く蹴れば速く走ることができるという意識も、もも上げと同じくらいに国民的常識になっている。片足が着地して体重が乗り、着地期後半に、地面を後方に強く蹴れば推進力が得られると思うのがやはり人情である。

 前述したように、着地期後半には、脚は後方向きにスイングする力がかかるのではなく、もうこの時点では、前向き(進行方向)に脚をスイングさせる力がかかっていなければならない。したがって、地面に着いた脚で強く後方に地面を蹴る動作をしてはいけないのだ。肝心なのは、力の向きであって、脚が動く方向ではない。動作の方向は目に見える。力の向きは目に見えない。一流選手は、目に見えないことをからだで知っている。

  地球を蹴らない感覚をどうやったら修得できるのか。一例をあげてみよう。
着地して膝を抜いたら、直後に、地球を足裏で引っぱり上げるようなイメージを持つのである。地球を引き上げる感覚、というのは、40年前のプロ野球の名バッター榎本喜八選手に、バッティングの構えのときに地面を足裏全体で地面を持ち上げるように、と指導した藤平(とうへい)光一氏(3)の言葉からヒントを得たものである。実際には、巨大な地球を足裏で持ち上げることなど出来るわけがないが、あくまでイメージの話である。地球を引っぱり上げるイメージなら、蹴る動作にはならずに、着地期中盤から後半には、脚には前に出てゆく力がかかる可能性がある。

 京大大学院生で、2005年の夏にヘルシンキで行われた世界陸上の20km競歩に日本代表で出場した杉本明洋選手も、競歩の動作を独特な感覚で捉えなおして、自己記録を大幅に伸ばすことに成功した選手の一人である。杉本選手は、筆者の運動科学の授業で、「足先が進行方向に向かって逆回転しているような感じ」と語った。股関節を固定して足先の動きを描いたら、進行方向に向かって足先は順回転している。これが客観事実であるが、杉本選手のイメージの世界では、進行方向に向かって逆回転しているのだ(図1)。

 こころは自由である。ときには実際の動きと正反対のイメージが、動作修得に必要な場合がある。愚直に頭や理屈で動作を作ろうとすると、よい動作は逃げて行く。動作の本質を科学的に理解したうえで、こころとからだで自由に動作を探してゆくと、よい動作が入ってくる。ただし、自分が上手くいったからといって、その感覚は、うまくはまる人とはまらない人があるので、強制してはならない。目標とする動作は一つであっても、そこに到達する感覚は個人ごとに違うのである。

図1 足先の回転方向のイメージ
進行方向に向かって足先が順回転 進行方向に向かって足先が逆回転
図1 足先の回転方向のイメージ (三ツ井滋之氏作図)

参考図書
(1)小田伸午、スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと、大修館書店、2005.
(2)小田伸午、運動科学 アスリートのサイエンス、丸善、2003.
(3)松井浩、打撃の神髄-榎本喜八伝、講談社、2005.

運動科学の授業中の小田伸午教授
運動科学の授業中の小田伸午教授

【以上の内容は過去の情報です】2006年オープンキャンパスは終了しました。