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京大数理科学を掘り起こす 良質なサイクルが生み出す数学研究の強さと可能性京大数理科学を掘り起こす 良質なサイクルが生み出す数学研究の強さと可能性

日本で唯一の総合的数学研究所

 数学は、さまざまな学問の基盤となる基礎科学である。多くの学問で活用されている概念や数式を、ピタゴラスやユークリッド、オイラーやガウスなど偉大な数学者たちが生み出してきた。純粋な数学は、世の中に存在する事物からは独立して頭の中だけで構築されるものだけに、それまでの見方や捉え方を根底から覆す力を持っている。とくに21世紀以降、複雑に変化・発展していく技術や社会の問題に新たな発想を提供する存在として重要性を増してきた。また一方で、社会の複雑な問題を解決するために応用される数学の技術が、数学に新たな理論をもたらしその可能性を広げている。

 こうした純粋数学の探求と数学の応用を両輪として、最先端の数学・数理科学の総合的な研究を進める国内唯一の数学研究所が、京都大学数理解析研究所(以下、数研)である。設立以来50年以上にわたって継続してきた優れた研究活動によって、世界的な研究所の一つとして認知されている。

数学研究の拠点として世界的に注目される京都大学数理解析研究所イメージ

数学研究の拠点として世界的に注目される京都大学数理解析研究所

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共同利用研究所としての出発

 数研が設立されたのは、1963年、東京オリンピック開催の前年にあたる。設立の契機となったのは、さらに9年ほど前、戦後の産業復興にとって数理科学の振興が重要という観点から、数学者や理工系の数学関係の研究者たちによって数学を主とする研究所設立を求める声が高まったことにある。

 戦後、日本の科学技術研究において、高度に発展する先進諸国との格差をいかにして埋めるのかが大きな課題となっていた。とくに遅れている基礎科学分野のレベルアップを進めるのに重要視されたのが研究の総合化や組織化だった。その機運をさらに高めたのが、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞(1949年、物理学賞)を記念して京都大学に湯川記念館を設立し、全国の理論物理学研究者が利用できる共同利用研究所とする構想だった。1953年には、文部省(現:文部科学省)によって、個々の大学の枠を越えて広く研究に活用できる大学附置共同利用研究所の制度が発足。京都大学にその第一号となる基礎物理学研究所が置かれたのを皮切りに、各分野で共同利用研究所の設立が活発になった。

 このような流れがあり、数学の研究所も構想段階から共同利用研究所として考えられた。当初、設置が検討されたのは東京大学だったが、附置研究所の数を制限したいという東京大学側の意向で断念せざるを得なかった。その後、いくつかの候補のなかでも数学研究が活発だった京都大学が有力候補とされるようになった。しかし、全国共同利用の性格を強調したため、大学自治を主張する京都大学側と意見が対立するなど、ここでもすんなりとは事が運ばなかったという。検討の末にようやく京都大学への設置案が具体化され、1963年4月、京都大学数理解析研究所が発足した。「数理解析」という名称になったのは、1944年に設立された統計数理研究所と重複する分野を除き応用解析を主体とするという当初のプランによるものだった。

大学附置共同利用研究所の第一号となった京都大学基礎物理学研究所イメージ

大学附置共同利用研究所の第一号となった京都大学基礎物理学研究所

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歴史を彩る輝かしい研究実績

 数研は、日本の数学研究の最先端を担う存在として、数々の世界的実績を挙げてきた。代数幾何学分野では、数学のノーベル賞とも言われるフィールズ賞を受賞した日本人3人のうち2人を輩出。1970年、アメリカ・ハーバード大学教授時代に特異点解消問題を解決した成果によって受賞した廣中平祐京都大学名誉教授、1990年、3次元代数多様体の極小モデル理論(森理論)で受賞した森重文京都大学高等研究院院長である。

 数学研究において新たな分野を確立するという偉業を成し遂げた研究者やグループもいる。確率解析を創始した伊藤清京都大学名誉教授は、ブラウン運動を用いてランダムな動きを記述する確率微分方程式を確立、鍵となる公式は「伊藤の補題」として世界に知れ渡った。数学だけでなく物理学、工学、生物学、また株価のオプション理論など幅広く応用され、ウォール街で一番有名な日本人と呼ばれたこともあったほどだった。2006年、数学研究が科学技術やビジネス、人々の日常生活など数学界の外にインパクトを与えた科学者を顕彰する目的で創設された国際的な数学賞、ガウス賞の第1回目の受賞者となった。

 代数解析学を創始したのは、佐藤幹夫京都大学名誉教授のグループである。佐藤先生は佐藤超函数、概均質ベクトル空間、D加群、ソリトン方程式と無限次元グラスマン多様体などの理論を次々と提案し、2003年にはウルフ賞(数学部門)を受賞した。その研究は佐藤スクールと呼ばれる弟子たちに受け継がれ、D加群の理論を確立し2018年に日本人初のチャーン賞を受賞した柏原正樹京都大学名誉教授、柏原名誉教授とともに超局所解析学を発展させた河合隆裕京都大学名誉教授などが素晴らしい業績を挙げている。

 また応用数学においては森正武京都大学名誉教授らによる数値解析、KABAグループによるかな漢字変換システムWnnなど先進的なソフトウェア開発のほか、離散最適化分野、数理物理学分野、流体力学分野など数々の貢献が挙げられる。

フィールズ賞受賞メダルイメージ

フィールズ賞受賞メダル

ガウス賞受賞メダルイメージ

ガウス賞受賞メダル

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 近年では、数論幾何学、量子幾何学など世界をリードする研究が行われている。数論幾何学では、望月新一教授が2012年に発表した宇宙際タイヒミュラー理論によって整数論の難問とされてきた「ABC予想」の解明が進んだ。数研が編集し欧州数学会が発行する学術誌『PRIMS』に掲載が決定した4編の論文は、600ページを超える膨大なものであるが世界的な注目を集め、数論幾何学の新しい方向を切り拓くものと期待されている。量子幾何学では、望月拓郎教授が代数・幾何・解析のすべてが絡み合う調和バンドルの理論を大きく拡張し、その応用としてD加群に関する「柏原予想」を証明した。これは解決には50年はかかるだろうと言われていた非線型偏微分方程式についての極めて難しい問題であったが、望月拓郎教授は8年余りをかけて総計1000ページを超える論文によって解決し高く評価されている。

望月新一教授の宇宙際タイヒミュラー理論が掲載される学術誌『PRIMS』イメージ

望月新一教授の宇宙際タイヒミュラー理論が掲載される学術誌『PRIMS』

若手にとって理想的な研究環境

 このような輝かしい実績がなぜ生まれ続けているのか。数研前所長・山田道夫特任教授はその背景に「設立以来、所員の研究環境を守ることを非常に重視してきた」ことがあると語る。

 「数学の研究は考えることが第一で、そのためには、静かに集中できる時間をまとまって確保することがどうしても必要です。若い助教や准教授にこそそういう時間をたっぷり提供すべく、研究以外の用事は主に年配者の教授が担当するというのが数研の伝統です」

 このようなスタイルは、数学の学問的な特徴とも深く関連している。数学は、他の分野や社会からの要請によって進展するのではなく、数学の中の原理で重要な問題が提起されて研究が進んでいく。

 「伊藤清先生は、ファイナンスの世界で称えられた時、『私はそのような研究をした覚えはない』とおっしゃっておられたそうです(笑)。たとえば、19世紀の数学者リーマンが確立したリーマン幾何学の枠組みは一般相対論に使われ、それが今のGPS技術の精度を上げるために不可欠になっています。このように、その時は何に応用できるのかわからなくても、100年経ったらそれなしでは世の中が成り立たなくなっているといった研究成果が、数学には本当にたくさんあります」

 だからこそ、数研では研究者を“放っておく”ことを重視する。できるかできないかわからない、というようなチャレンジングな研究ができる環境づくりが、今までにないような素晴らしい発見につながってきた。望月教授の新理論も、論文を書きあげるまでに20年の歳月がかかったという。

 「どのような人を迎え入れるか、ということにも心を砕いています」というのは現所長・熊谷隆教授だ。数研にとって一番重要な研究資源は人そのもの。研究所の存続をかけて常に背水の陣を敷くというような意識で、優れた研究者の確保に臨んでいるという。

 「今までに研究所として業績を挙げてきた分野、得意な分野を大切にしながら、それにこだわることなく、広く国内外を見渡してどのような活躍をしているのか常に情報を収集しています。必要な人だと思えばスピーディに迎え入れるようにしているのが、数研がうまく動いている一つの要因だと思います」

若手が存分に研究できる環境があるのが京都大学数理解析研究所の特徴だと、数研前所長・山田道夫特任教授は語るイメージ

若手が存分に研究できる環境があるのが京都大学数理解析研究所の特徴だと、数研前所長・山田道夫特任教授は語る

年間4,000人の研究者が来訪

 紙とペンさえあれば他に何もいらないというイメージのある数学研究だが、実はそうではない。「優秀な人と集まってディスカッションし続けられることが、数学研究の生命線」と山田前所長も話すように、優れた人と実際に会って議論しアイデアをキャッチボールすることによって、一人で机に向かって考えているだけでは生まれなかった成果が形になることが多い。

 こうした環境づくりに一役買っているのが、創設以来継続してきた、全国の数学研究者が利用し共同研究を進められるオープンラボラトリーとしての役割だ。毎年共同研究プランを国内外に募集し、応募のあった中から約80件の共同研究が実施されている。以前から海外の研究者も多数訪れていたが、2018年11月に国際共同利用・共同研究拠点に認定されたことでさらに増加。数研自体は40名弱の組織だが、訪れる研究者は年間4,000人にものぼり、そのうち500人は海外からの訪問者である。

 共同研究プロジェクトの中でも最も重要視しているのが、訪問滞在型研究と呼ばれる研究集会だ。1年ぐらいの期間を設定して一つのテーマについて何件かの研究会や共同研究を行いながら、その間に該当分野の世界的な研究者何人かを招いて1~3カ月程度滞在してもらい、密な議論を重ねる。世界の数学研究において標準的なスタイルだが、数学に特化した訪問滞在型研究を年に2件実施している研究所は国内では他にないという。

 「ただ、年に4,000人もが訪れる研究所にしてはスペースが狭すぎます。世界の有名な数学研究所では、一人で静かに思索し、時には自由にディスカッションできる快適な空間が整備されていますが、数研ではせっかく著名な数学者に来ていただいても相部屋の研究室で我慢してもらうこともあります」と熊谷所長は問題点を指摘する。

 数学研究には工学系のような最新の実験装置は必要ないが、研究活動の広がりや深化の要となるのは優れた研究者を集めて自由に議論ができる環境であり、その整備には相応の予算もスペースも必要になる。快適な研究環境は研究者の来訪モチベーションとしても大きなものがあるため、早急に改善が望まれる深刻な問題だと言えよう。

国際共同利用・共同研究拠点として認定される京都大学数理解析研究所には、世界中の優れた研究者たちが訪れるイメージ

国際共同利用・共同研究拠点として認定される京都大学数理解析研究所には、世界中の優れた研究者たちが訪れる

最先端の数学に触れる大学院教育

 所員の研究活動、国際共同利用・共同研究拠点の事業に加え、数研のもう一つの重要な柱となっているのが大学院教育だ。1970年から実施している大学院教育は、マンツーマンに近いスタイルでのセミナー指導が核となっている。修士2年にもなると既存の理論をベースに何か新しいアプローチを独自に見つけていくことが求められ、自分の考えを発表しては一流の研究者に突っ込まれるという経験を繰り返しながら成長していく。

 「研究所内にはいつも海外から優秀な研究者が誰かしら来訪しており、院生は研究集会にもほぼ自由に参加できます。読んでいた文献の著者がすぐそばで研究をしているという非常に恵まれた環境があります」(熊谷所長)

 このような世界の最先端に生で触れられるダイナミズムが、数研の大学院教育の大きな特長の一つ。刺激的な環境から、これまでに多くの優れた若手研究者を輩出している。

国際共同利用・共同研究拠点であることは大学院教育を行う上でも重要な意味があると、数研現所長・熊谷隆教授は説明するイメージ

国際共同利用・共同研究拠点であることは大学院教育を行う上でも重要な意味があると、数研現所長・熊谷隆教授は説明する

 アメリカ数学会の学会誌で「an Institute for Japan and the World(日本と世界のための研究所)」と形容されるなど、数研の活動は世界でも評価されている。熊谷所長は、「国内外の研究機関とさらにシステマティックに連携し、国際的なハブとなる研究所にしていきたい」と今後の抱負を語る。また、訪問滞在型研究など重要な研究に重点配分していくことに加え、多様な研究分野に広く配分することにも気を配っているという。「数学は、どこから芽が出てくるのかわかりにくい。広範囲にタネを撒くこともとても大切」と、熊谷所長は考えるからだ。

 優秀な人が集まるから優れた研究が生まれ、前途有望な若手が育つ。このような好循環が数研には根付いている。このサイクルを今後ますます加速させていくことで、京都大学数理解析研究所の世界における存在感はさらに高まっていくだろう。

京大数学・数理研究の発掘ポイントPOINT of DISCOVERY
  1. 世界的実績を挙げてきた日本を代表する数学研究の拠点
  2. 若手が思う存分に研究できる環境を重視
  3. 年間4,000人の研究者が来訪する数学研究の国際的ハブ
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