VOL.13 深谷 賢治 教授(京都大学大学院理学研究科)

VOL.13 深谷 賢治 教授(京都大学大学院理学研究科)

頭の中に拡がる空想を論理でつかまえる。その空想を現実にすることができるのが数学です

数学は抽象的で、直感的に理解しにくい学問の一つである。難解な定理や法則を使いこなし、人の目には認識できない高次元の空間すら描きだす最先端の数学ともなれば、なおさらだ。現代数学の最前線に立つ数学者にはどんな世界が見えているのだろう。数学のなかでもとくに図形や空間を取り扱う幾何学の分野で数々の業績を上げる、深谷賢治教授をとりこにする数学の魅力とは。

「数学は難しい」と敬遠する人、「数学は苦手」と顔をしかめる人が多いのはなぜだろう。

「「わかっていない」ことがわかりやすい学問だからです」。深谷教授の返答は、簡潔明瞭。

たしかにそうだ。ほんとうはわかっていなくても、なんとなくそれらしい解答を書いておけば点数をもらえる科目もある。でも数学は「なんとなく」ではごまかせない。「理解できている人とできていない人の差が明確かつ残酷にわかるのが数学。ひどい点数をとって、嫌になった人が多いのでしょう。でも、試験でいい点数を取ったとしても、はたしてどこまでしっかりと理解できているかは、あやしいものですよ」。

高校数学と大学の数学とを隔てる「厳密」な壁

ごまかしがきかずに嫌になる。そんな中学・高校の数学自体にも、じつは「ごまかし」がある。「数学の教科書や教師が授業中に使う言葉の定義はかなりあいまいで、ふだん何気なく使っている日常の言葉を安易にあてはめて説明している。けれど、それは大学の数学ではまったく通用しません」。たとえば「実数」や「収束」、「極限」といった用語は、高校の教科書ではほんの数行で説明されているが、正確に定義しようとすれば複雑な証明が必要となる。

あたりまえだが、大学では数学者が数学を教える。数学者はまず、細かな言葉の定義を徹底し、意味の不確かな言葉を排除するよう指導する。新しい言語を習得しなければ、会話が成りたたないからだ。そのため、大学で学ぶ数学は一見すると、高校の数学とはまるで別物のよう。高校で習うレベルとあまり変わらなくても、大学ではとたんに難しく感じる人も多い。「教科書はわかりやすくないといけませんが、「こんなに厳密な学問の世界があるのだ。これが数学の考えかただ」ということも伝えたい。高校教科書の執筆に参加するときには、わかりやすさと厳密さとのバランスについて、出版社の担当者といつも議論になります」。

たどり着くべき答えを探す数学は人生そのもの

言葉の定義から始まり、あいまいさが残る余地を徹底して拒絶する厳格な学問、それが数学。そもそも数学者は、どんな手法で研究を進めるのだろうか。

「答えという〈結論〉よりも、なぜそうなるかの〈過程〉を重視する学問です」。高校の試験問題には、正解と、それを導くための手順の模範があらかじめ用意されている。どの公式を当てはめればよいかがひらめけば、あとは正確に計算して答えを出すだけ。数学の研究も、証明して結論を出すだけなら「分量の多い試験問題」でしかない。「私たちが取り組む数学には出題者はいませんし、答えも解きかたも用意されていません。こうなるだろうという架空の答えを自分で想像して、それにたどり着く道筋も空想して創造しないといけません。イメージ上にしかない「答え」の実在を、数学の論理で証明するのです。いわば論理と空想の反復運動です」。

「答え」というゴールが定まらないと、どこに向かってよいかわからない。ところが数学の世界では、その目標すら存在しないかもしれない。ゆえに、どれだけ長い時間を研究に費やしても〈結果〉が出ないことも多い。「実験の結果、この方法では目的を達成できないことがわかった」という失敗報告の論文は、他の学問では有用でも数学ではまったく価値がない。達成すべき目的がないと判明したら、その目的に再挑戦することも、ましてや失敗を記録しておく意味もないのだ。

何年もかけて研究しても論文を出せないことも多いため、任期を限って採用される若い研究者には厳しい世界である。しかし、深谷教授はその辛さを意に介さない。

「ガイドブックおすすめの観光地に行こうとして、モデル・コースどおりに旅行します。でも、渋滞につかまったり、目的地に着いても期待した風景ではなくてがっかりすることがありますよね。人生も同じで、むしろ思いどおりにならないことのほうが多い。数学だって、証明してみたら仮定とぜんぜん違う結果になって当たり前。数学は人生そのものなんです」。

ひとりで、自由に究められる魅力

人生同様に思いどおりにならない数学だが、人を惹きつけてやまない面もある。とりつきにくいが、本気で取り組むと退屈するひまもなくなるほどに奥深い。数学の世界は広大だ。すでに証明された定理や概念を書き記すだけで、何万冊もの本ができる。

物理の最先端分野などは研究が始まって日が浅く、明らかになっている事柄がまだまだ少ない。法則が一つ新たに見つかるだけで、分野全体を書きかえるほどの大発見になるが、新発見は容易なことではない。法則を発見して自分の名前を残せる人間は100年に1人か2人現れる程度だ。

ところが、数学の定理は無数に存在する。そればかりか、自分の名前のついた新しい定理をつくることもできる。ひとにぎりのとびきり優秀な数学者だけに許された特権でもない。数学者なら誰でも、修士課程の学生にさえ新しい定理を生みだすチャンスがある。「みずから生みだした定理は論理によって存在が裏づけられていて、根拠のない絵空事ではありません。たしかに存在する定理という一つの世界を、自分一人で考えてつくることができる。それが数学の魅力です」。

しかも、数学者がつくりだす世界は、論理以外のしがらみから自由だ。日々の生活を送るうえでは、ものごとを決めようとしても「こんな答えが出てはいけない」、「こうなってはいやだ」という倫理観や好き・嫌いの感情が選択の余地を狭めてしまう。数学ではそれらの要因を判断基準から切り離すことができる。その結果いかに奇妙に見える答えが飛びだしても、その結論を導いた論理が正しければ許容されるのだ。

仲間たちと追い求める「意義深さ」が社会を変える

すべての数学者に定理を発見する機会がある。とはいえ、情報機器や経済学の発展に寄与するなど、目に見えるかたちで社会の役に立つ定理となると、やはり簡単には見つからない。定理はそのままでは社会に還元できない。物理などさまざまな分野に応用されてはじめて価値をもつ。専門外の領域での具体的な使い道まで見定めることは、定理を発見した本人といえども一人では難しい。

長い時間をかけて蓄積された概念の中から、価値のある重要な定理を見つけだす方法が、じつはある。それは、「意義深い」考えを探すことだ。

「数学者の言う「意義深い」という言葉の定義は、既存の問題が「自然」に解けることです。「自然」は説明が難しいのですが、考えかたの筋道に対して数学者が共通して抱く感覚です。ある問題を解くときにこの定理を使ったら、次はこの公式にあてはめるのが「自然」だと思う。多項式だと、二次方程式が解けたから三次方程式を解いてみる。三次方程式が解けたのだから四次方程式もあるはずだ、さらに五次方程式も試したけれど解けなかったという挑戦の流れも、数学者は「自然」と感じます」。

「意義深さ」や「自然」という価値観は、数学者どうしの交流から発生し確立した、いわば共同作業の産物だ。ある数学者が「この論文は意義深い」と評価したならば、ほかの数学者もその論文の意義深さを認めるであろう。「意義深さ」の尺度は多くの数学者に共通するからだ。何人もの数学者が「意義深い」と認めることは、その論文の価値を保証する根拠になる。

「すでにある難問を解くだけなら、たとえ10年かかっても一人でやりとおせます。しかし、影もかたちもない問題の姿を想像しているうちに、自分の立てた方向性が「意義深い」のかわからなくなる。そもそも「意義がある」とはどういうことか考えこんでしまう。そんなときには、多様な意見をもった数学者仲間とぶつかりあって、見失った道を再確認します。人との交流や数学者コミュニティに参加することの意味はそこにあります」。

数学は頭脳さえあればできる学問だが、仲間と議論をするときには黒板があると互いのアイデアを伝えやすい。研究室の黒板にも数式や記号がびっしりと書き連ねられている。数学は「孤高の学問」ではない。顔と考えを突きあわせて仲間とともに築きあげる、白熱した世界でもある。黒板に踊る数式や記号の一つひとつが、その熱の名残なのだ。

立ち止まらずに、シンプレクティック幾何学のその先へ

数学の分野の発展は、ある素朴な疑問やアイデアをどう理解して活用するかを模索することからはじまる。やがて、さまざまな問題を解くための基本的な「道具」となるいくつかの定理が発見される。見つかった定理を使って研究を進め、言葉や概念が定義されると、さらに新しい「道具」が集まり、研究範囲が拡がり、体系が整えられる。その繰り返しで深化する。

深谷教授の専門はシンプレクティック幾何学。19世紀の数学者ハミルトンが物理の古典力学を数学的な空間と関連づけて定式化したことを起源とする。ここ20年の間に急速に発展している分野で、量子力学や超ひも理論とも深い関わりがある。深谷教授は多くの「道具」を見いだし、この分野に貢献してきた。その一つは、深谷教授の名前を冠した「深谷圏」という、空間を構成する数の集まりを把握するための概念である。

「シンプレクティック幾何学の道具もいよいよ揃いつつあり、あと10年ほどで発展が落ち着くでしょう。この分野の完成に関わっている一人として、その先を見てみたい」。手がけてきた分野がひと段落しようとも、深谷教授は立ち止まらない。シンプレクティック幾何学そのものを「道具」として、さらなる未知の分野に進む。

机に向かっていない時間も重要

証明に至る大まかなイメージを考えているときの深谷教授は、紙に書かず脳内で思考をまとめるだけだという。「私は数学者のなかでもとくに「書かずに研究する」タイプ。もちろん具体的な証明は書いて確かめますし、成果を発表するために論文としてまとめる必要はあります。証明や論文を書いている時間のほうがいかにも仕事をしているように見えますが、机に向かわずに考えを膨らませている時間は、それ以上に大切なんです」。

研究室にいると書類提出などの事務作業が多すぎる。落ち着いて考えられる環境を求めて喫茶店に入ったり、ときには山の中をひとり歩く。深谷教授の研究に必需品があるとすれば、「一杯のおいしいコーヒーくらいかな」。

「愛読書を1冊挙げてほしい」とお願いしたが、これという1冊には絞りこめないようす。本棚には数学書のほかにも、SF小説、山田風太郎の忍法帖シリーズや高木彬光の推理小説、宇宙に関する本からカントやウィトゲンシュタイン、ヘーゲルの哲学書まで、幅広いジャンルの本が並ぶ。分野にこだわりのない多様な読書体験が、幾何学の世界を切り拓く深谷教授の独創的な発想を支えているのかもしれない。

取材日:2012/11/16

Profile

1959年に神奈川県に生まれる。中学時代には天文、物理などの科学を好み、高校時代にはすでに数学研究の道に進むことを決めていたという。1981年に東京大学理学部を卒業。1986年に博士号取得。同大理学部助手、同助教授をへて1994年から京都大学理学部数学科教授に。日本学士院会員。

おもな著作に「数学者の視点」(岩波書店、1996年)、「シンプレクティック幾何学」(岩波書店、2008年)など。教科書、概説書などの学術書のみならず、数学者の日々や現代数学の動向を軽妙な語り口で綴るエッセイも評価が高い。

2009年度には「シンプレクティック幾何学の研究」により朝日新聞文化財団朝日賞、2012年には「位相的場の理論の幾何学的実現とその数学的基礎理論の構築」で藤原科学財団藤原賞を受賞。