番外編 益川 敏英 名誉教授

番外編 益川 敏英 名誉教授

ノーベル物理学賞受賞記念対談 益川名誉教授、受賞にいたる研究の足跡を語る

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かつて京都大学で研究生活を送った2人の物理学者、益川敏英 京都大学名誉教授と小林誠 高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授が2008年秋にノーベル賞を受賞したというニュースは、まだ記憶に新しいでしょう。日本中が喜びに沸くとともに、日本の、なかでも京都大学の基礎研究のレベルの高さを内外に示すこととなりました。
受賞の対象となった「小林・益川理論」は、お二人が京都大学理学部に助手として在籍されていた1973年に発表されたものです。京都大学の海外向け英文広報誌『楽友』ではこの栄誉を記念して、2009年春発行の第15号において、益川名誉教授と基礎物理学研究所の前所長・九後太一教授との対談記事(聞き手:宍倉光広 理学研究科教授、対談日:2008年11月24日)を掲載しました。ここにその日本語版を掲載します。

素粒子研究の歴史

宍倉:益川先生、このたびはノーベル物理学賞受賞、おめでとうございます。まず、今回の受賞に至るまでの、素粒子研究の歴史について、ご説明いただけませんでしょうか?

益川:ご存じのように、我々の周りにある物質というのは、原子からできています。その原子も原子核と電子からできており、それを記述する物理法則は、1926年にハイゼンベルグとシュレーディンガーによって明らかにされました。さらに研究が進み、原子核は陽子と中性子からできていることがわかりました。そして1955年前後、宇宙線を使うという新しい手法で調べていくと、未知の新粒子が次々に見つかった。そこで当時名古屋大学の教授だった坂田昌一博士が、20くらい見つかっていたそれら素粒子の中に基本粒子というものが3つあって、ほかの素粒子は、その基本粒子の組み合わせでできているという考え方「坂田モデル」を発表しました。この考え方が後に、ゲルマン-ツヴァイクのクォークモデルへと発展していくわけです。また、この粒子がどのように振舞うかというダイナミクスについても、同時に研究が進められていました。その最大の出来事が、1955年にリー・ヤンによって、我々の物理法則は鏡のように左右対称ではないということが発見されたことです。

そうすると今度は、左右を入れ替えると同時に、粒子と反粒子を入れ替えると、左右対称になるということが提唱された。これが「CP対称性」と呼ばれるものです。しかし後にフィッチ-クローニンによって、CP対称性というものも、「弱い相互作用」よりもっと弱いレベルですが、破れているということが観測されました。この発見が発表されたとき、僕は名古屋大学大学院の修士課程2年で、坂田教授の研究室に入ったときでした。研究室には、毎週出る論文誌を輪番制で誰かが代表して読んで、「これは要注意」と思う論文を選んで皆に紹介する「速報会」というものがありました。僕が最初にその当番になったとき、「CP対称性の破れ」を見つけたというフィッチ-クローニンの論文が入っていたのです。

九後:それがCP対称性の破れについての最初のレポートですか?
益川:そうです。
九後:輪番制だったということは、その論文は、もしかしたらほかの人によって紹介されたかもしれないわけですね?
益川:そう。そういう意味では運命的ですね。
九後:CP対称性の破れの実験結果が出たときは、それを説明する論文はたくさん出たのですか?
益川:いや、そうでもありませんね。

小林・益川理論の構築に至るまで

宍倉:CP対称性の破れを説明する理論を構築しようと考えられたのは、どういう経緯ですか?

益川:フィッチ-クローニンの論文を速報会で紹介してから、ずっと喉に骨が刺さったように気になっていたのです。そこへ1971年にト・フーフトとフェルトマンが、弱い相互作用というのは計算できる理論だということを証明した。その前年、僕は京都大学の理学部に助手として来ていましたが、この理論だったら、CP対称性の破れを説明できるかもしれないと思ったのですね。一方、当時名古屋大学にいた小林さんも、CP対称性の破れに興味を持っていた。それで彼が1972年に京都大学に移ってきたとき、一緒に仕事をしようと誘ったのです。
宍倉:お二人の役割分担のようなものはあったのですか?
益川:小林さんは何でもできる人で、僕は実験のほうはよく分からない。だから僕が「こうやったらCP対称性の破れは起こる」という理論の枠組みを作って、それを立証する実験が可能かどうかを考えるほうを彼が担当していましたね。
宍倉:小林・益川理論はお風呂で思いつかれたとか?
益川:4元モデルではどうしてもCP対称性の破れが解決できないものだから、ライトハンドカレントというモデルを僕が作ったのです。翌日、「あれはうまくいきません」と彼から宣告されたのです。本当はすぐにそれは無理だとわかっていたようだけれども、先輩の僕に気を遣って、その場では否定しなかったようです(笑)。何か起死回生の手はないものかと思って、家に帰ってからお風呂で湯船に浸かって考えた。でもどう考えても4元モデルでは無理だという結論になった。仕方がないので、恥ずかしいけれども、うまくいかなかった失敗例として論文を書こうと思ったのです。そして湯船から立ち上がった。そのときですね、6元モデルがひらめいたのは。うまくいかなかったという論文を書こうと決心したことによって、当時は大前提と考えられていた4元モデルに対するこだわりがなくなったのです。それで翌日、小林さんに「6元モデルをベースにしたものを論文に書こうかと思う」と提案したら、彼も「明日まで考えてくる」というようなことは言わず、即座に同意してくれました。それが6月の終わりごろで、9月の中ごろに基礎物理学研究所と日本物理学会が発行している『Progress of Theoretical Physics』に投稿して、翌73年の3月号で公表されました。

京都大学の雰囲気

宍倉:京都大学で研究されるということは、ほかと違う点はあるのでしょうか?

九後:基礎物理学研究所は、素粒子論の全国的な、というよりもむしろ国際的な研究拠点となっています。京都大学の附置研究所ではあるけれども、その枠を超えた研究所です。そういう意味では、益川さんが1970年に京都大学に来られるときには特殊な感慨を持たれたのではないでしょうか?
益川:やはり場の理論に関しては京都大学が進んでいましたので、名古屋から緊張感を持って眺めていたという感じはありますね。
九後:僕は71年に京都大学の物理教室に入りましたが、あのときは必ずしも場の理論中心という雰囲気ではなかったように思います。むしろ益川さんが場の理論を京都大学の物理教室に持ち込まれたのではないでしょうか。益川さんは1971年12月にワインバーグのレプトンの理論を初めて紹介されていますね。場の理論というのは、特に強い相互作用に対してはほとんど無力であるということで、世界でもあまり信用されていなかった当時、それは非常に新鮮な話でした。そもそもクォークというものがあるということ自体、世の中の人も半信半疑でした。そんな当時に、あの理論がこれからの非常に重要な方向を示していると考えられたのは、やはり益川さんのセンスだと思いますね。

物理学者になるまで

宍倉:益川先生は小さい頃から算数や理科がお好きだったのですか?

益川:小学校の頃は、毎日夕方遅くまで遊んでいました。あまりにも勉強しないため母親がある日、「うちの子どもは家で全然勉強しないので宿題を出してください」と先生に言ったそうです。すると先生いわく「いや、宿題は毎日出していますけれども、息子さんがやってこないのです」(笑)。勉強するようになったのは、本との出合いのおかげですね。あるとき調べものがあって近くの図書館に行き、ある本(どういう本だったか覚えていませんが)を広げたら、なぜかものすごく興奮したのを覚えています。それ以来、本を中心に僕の世界は広がっていきました。
宍倉:物理の世界に進もうと思われたのはなぜですか?
益川:やはり坂田先生の存在が非常に大きいですね。僕が名古屋で高校に通っていたとき、地元の新聞で、坂田教授が素粒子物理学の分野で世界的にも非常に優れた研究をしているという報道を読んで、素朴に「僕も仲間に入れてもらおう」と思い、名古屋大学を目指しました。ところがうちは製菓材料の砂糖を扱う商売をしていて、当時は人手不足が深刻だったので、父親は私を労働力として期待していたのですね。だから大学受験は1回だけという約束でした。
九後:落ちたら家業を継げということですね。
益川:今までの人生の中であのときだけですね、あれほど必死になって勉強したのは。
九後:大学に入られて、まっすぐに物理学者を目指されたのですか?
益川:大学で研究者という人種を最初に見たのは、中野藤生という、その当時まだ30代前半の大変優秀な先生。我々が質問しに行くと、「そんなもの、自分で調べろ」と言われる。学生を手取り足取り教える教育者というよりも、自分でコツコツ調べ、実験を積み重ねる研究者の態度を教えられました。それ以来研究者に大層惚れ込みました。僕は物理以外のいろいろな分野にも興味があって、脳について3ヶ月ぐらい自主ゼミで勉強したこともありました。医学部に入り直していたら、まともな大脳生理学者になっていたかもしれないですね(笑)。今も進化学などに興味があります。でもそこまでする気持ちはなくて、最終的には坂田先生の研究室に入りました。修士課程2年ぐらいのときですね。

歩きながら考える

宍倉:よく歩きながら考えられると聞きましたが…。

益川:僕は歩かないと考えられないのです。机の前に座った途端に思考が停止する(笑)。誰かがそばにいてもダメなのです。だからもっぱら歩く。
九後:交通事故に遭いそうになったとか。
益川:女房に言ってあるのです。交通事故に遭ったときには、僕の責任だと(笑)。いや、冗談ではなくて、ダンプの運転手に3回怒鳴られました。「どこ向いて歩いている!そっちの信号は赤だろう!」
宍倉:考えながら歩くのに、京都はいい町だということはありませんか。
益川:冬の哲学の道はいいですね。途中、北白川の疎水が自然の川と立体交差しているところがあって面白いですよ。こういう話は大好きです(笑)。

皆さんに伝えたいこと

宍倉:これから京都大学、あるいは日本で勉強される方たちへのメッセージがありましたら、お願いします。

益川:実際に研究をしていると、本筋とは違う、意に沿わないことをしなければならないこともままありますが、そんな苦しい状況でも自分の目標を見失わず、常に高いところに目標を持ち続けて、実験など実作業は地道に積み重ねる努力を続けることが重要です。あと、友人や先輩などと自由に議論を交わすことも大切ですね。

Profile

1940年、名古屋に生まれた益川敏英名誉教授は、あまり勉強好きではなかった幼少時代を経て、高校時代に、当時世界的な物理学者だった坂田昌一博士に憧れ、名古屋大学に進まれました。1967年に同大学院博士課程を修了し理学博士号を取得された後、1970年に京都大学に移り、理学部、基礎物理学研究所の教授、所長などを歴任。1973年に、当時同じく京都大学の助手であった小林誠博士とともに発表した「小林・益川理論」は、物質の存在の謎を解く画期的な理論として、世界中の注目を集めました。近年、大型加速器を使った観測によりその正しさが次々に実証され、2008年秋のノーベル物理学賞を受賞されました。
今回の「研究最前線からのメッセージ」は番外編として、益川名誉教授の生い立ちから世界の素粒子研究の流れに至るまで、後輩でもある九後太一 前基礎物理学研究所長と語り合っていただきました。