京都大学の正門をくぐると、正確に時を刻んでいる時計台と堂々と樹齢を重ねている楠の大木が私たちを迎えてくれている。ランドマークである時計台が80年間京大を見つめてきたわけだが、その時計台を35年間も守り続けている人がいる。時計職人でもないのに時計の保守を請け負うことになった杉谷さんと時計台との出会いはとてもドラマチック。今回、特別企画として、杉谷さんと時計台の35年間を振り返っていただいた。(※ 杉谷さんは、2015年3月に引退されました。 感謝状贈呈の様子

 

電気がご専門の杉谷さんが、京大の時計台の時計に関わられるようになったのはどうしてだったのですか?

杉谷 「大正14年から80年以上動いてきた時計なんですが、惜しくも大学紛争時に一度、壊されてしまいましてね。時を刻めなくなってしまったことがあるんですよ。とにかく直さなくてはと調べてみたら、なんと電気時計だったんです。大正14年からこんなに大きな電気時計が動いていたなんて、実は歴史的にも凄いことで、おそらく日本初の電気大時計であり、当時としては画期的な最先端技術だったはずです。そこで、修理を請け負ったメーカーの下請けとして電気技師だった私がお手伝いすることになったわけです。」

杉谷さんはそれをお知りになって、大変驚かれたんでしょうね。

杉谷 「そりゃもう、ちょっと興奮気味でしたね。(笑) ただ、とにかく動かすことが先決だったので、設置当時の設計ではなく、一般的な水晶時計にマスタークロックを付けた機械式ムーブメントで応急措置をとりました。しかし、すぐに針が止まったり折れたりして、その日の内に直さなくてはいけないということで、当時は時計台にこもりながら修理を重ねてきました。」

それでは日々、時計と格闘されていたということですか!?

杉谷 「そんな感じです。(笑) それでしばらくすると動作も安定してきたので、自分の興味も手伝って、設置当時のメカニックについて調べていました。そうしたらね、電気時計で動いていた当初は、なんと年差がたったの1秒で動いていたことがわかったもので、そりゃ興奮しました。大正14年に365日で1秒しか狂わない電気大時計がこの京大に設置されていたわけですからね。そして思ったのが、修理ではなくて本来の設計に戻すべきなんじゃないかと。仕組みとしては、理学部天文台からパルスをもらって電気で機械式ムーブメントの時計を動かしていたんです。」

先進の気風を感じる京都大学を彷彿とさせるお話ですが、当時の設計に戻すとしてもそんなに容易ではなかったと思いますが。

杉谷 「その通りです。第一、機械時計が主流だった当時に、なぜ電気時計が導入されたのか知る人もおらず資料もないのでわからない。時計台を設計された武田五一先生(建築学科初代教授)が、わざわざドイツの電機メーカー・シーメンス社に発注されることになったのですが、どうして一般の時計メーカーでなくシーメンス社だったのか。とにかくわからないことだらけでしたから、学内新聞の写真などからスケッチを起こしたりして、もうほとんど手作り状態。そうこうしている内に完全に時計が動かなくなって、何とか作り直さなくてはいけない状況になってしまった。(笑)」

 

現状の時計台について、簡単にお教えいただきたいのですが。

杉谷 「全国の大学に時計台はよくありますが、京都大学の時計台のユニークなのは、電気パルスでムーブメントを動かす電気時計だったことにつきます。昭和 44年の応急措置で水晶(クォーツ)時計にマスタークロックを付けたものに変えてしまいましたが、これがまったく止まってしまったので、とにかく復元を急ぎました。現在は、95%くらい復元しています。あとの5%は技術的に戻せますが、わざと残しています。保守を簡便化するために、自動化できる部分はどんどん自動化しましたから。この時計は機械時計と電気時計が組み合わされた、いわばハイブリッドタイプで、全国では唯一のものだと思います。」

杉谷さんを突き動かした何かが、時計台にあったと思いますが。

杉谷 「そうですねぇ。とにかく『このオンボロを直さなきゃならない。時針を止めるわけにはいかん!!』、その一心でしたね。最近になって、この時計が自分の人生の中で大きな時間を占めるようになっていたと気づきました。時計が少しずつ昔の形を取り戻して来るにつれて、自分の人生の中で一つのモニュメントができたような感じです。(笑) それと、どうしても知りたい不思議なことがまだあるんです。」

時計台の謎はまだ全部解けていないってことですか?

杉谷 「そうそう。私の憶測では『当初は時計台の鐘は南側に付くはずだったんじゃないか』と考えています。今は北側についていますが、機械を取り付ける側の人間から見ると、なにもこんなに無理して設計して付けなくてもって感じの構造をしています。」

最初は南側に付いていたということですか?

杉谷 「いいえ、途中で設計を変えたんじゃないかな。時計台として設計したのなら最初から時計が付いていてもおかしくないのに、ここの時計台ができたのが大正13年、それから半年ほど経った大正14年に時計が取り付けられ動き出しました。南側にあって今は役に立たない踊り場の上に、ワイヤーを通す穴がかつては残っていたんです。きっと、この半年の間になにかがあったと思うのですが…。それをぜひ解明したいですね。これはもう僕の道楽です。(笑) 時計台の話になるときりがなくて、我ながら好きやなぁと思います。」

それは、時計台を守ってきたという誇りですか?

杉谷 「誇りというか、やっぱり愛着があります。30年以上も付き合ってきたからね。京都大学でなかったら、僕のような個人に保守を委託するなんていかなかったでしょう。昔は時計台に専門職員が一人付いておられましたが、最後のご担当だった水谷治三郎さんが退職される際、私に後任を託していただいた次第です。大手メーカーでなく、この私にですからね。そこがこの大学のすごいところというか、権威主義的でなく、自由な学風を重んじていることの表れなんじゃないかと思っています。」

時計が復元した今、時計台とどう関わっておられるのでしょうか。

杉谷 「今は月に1回、時計のギアへ油を挿しに塔へ上がります。動作チェックも兼ねてね。さして難しい仕事ではありませんが、私も75歳ですから、あの急な塔の階段を上がるのがそろそろしんどくてね・・・。今のうちにマニュアルを一冊作っておこうと思っています。それでも、一週間以上は家を留守にしにくいですね。万一時計が「止まった」とか「暴走した」なんかの理由で、電話が掛かってくることをつい考えてしまいますから。たいてい旅行に行くときは、前もってしっかり確認だけして出るようにしていますよ。いくらうちの若い者をしごいておいても、しっかり思うようにやってくれるかまだまだ心配なんです。(笑)」

特に35年の間で、忘れられない時計台との思い出はおありですか?

杉谷 「それがね、意外とつい最近の話で今年(2005年)の夏に一生忘れられないハプニングが起こったんですね。時計台の文字盤は毎夕方6時になると照明が付いて見やすくなるよう自動設定されているのですが、例年、京都の五山の送り火の日だけはみなさんに観てもらいやすいよう職員の方が照明を手動で消しに上がるんです。それがたまたま昨年は職員の方がお休みを取られていたので、私に代役が回ってきたんですよ! この塔の上からだと『鳥居』の火がそれは美しく見える。街の灯りの上に浮かぶようにね。僕は昼間しか保守に上がったことがなかったものですから、とっても楽しみにしてたんです。趣味で写真をやってますから、自慢のカメラまで持って来たんですけどねぇ…。」

あいにく天候が悪いか何かでだめだったんですか?

杉谷 「見とれていて(笑)」

それじゃ、撮れなかった!?

杉谷 「はい、一コマも。(笑) でも、本当にきれいでした。時計台がくれたごほうびと思っています。(笑)」

今日は時計台にまつわる楽しいお話、どうもありがとうございました。

杉谷 鉄夫 さん プロフィール

昭和5年12月10日生まれ。立命館大学理工学部卒業。

昭和29年有限会社杉谷ムセン設立。

(家庭電化製品を販売する家電部、無線設備等のメンテナンスを担当する通信部、京都大学時計台のメンテナンスを専門とする特機部からなる)