人間・環境学研究科十周年記念式典 祝辞

                         平成13年10月20日

 

  人間・環境学研究科の創設10周年まことにおめでとうございます。この研究科は京都大学としては最初の独立研究科として作られたユニークなものであります。それは京都大学の学部1、2回生の教養教育をどのようにして改善したらよいか、またそのために京都大学教養部という組織をどのように改組したらよいか、という長い全学的議論を経て誕生したものであります。人間・環境学研究科の創設の翌年には総合人間学部が作られ、教養部という名称はその段階でなくなりました。それまでの数年間真剣に議論を行い、人間・環境学研究科、総合人間学部の設立にたずさわられた諸先生方にここであらためて感謝の意を表したいと存じます。

  それから10年たち、人間・環境学研究科の教育研究棟もかなりの部分が新しく作られ、その教育研究活動がレールに乗って順調に進んでいることはまことに慶ばしいことであります。しかし最近になって、全国的に大学の教養教育の崩壊といったことが言われだし、京都大学でも教養教育がどうなっているか、それとの関連で人間・環境学研究科は今後どうあるべきかという議論が出てまいりました。

 最近の学生の学力低下、学習意欲の減退、物事に対する積極性のなさ、自主・自律心の欠如などの問題にどう対処するかということと共に、最近の学生の教養のなさについての不満が社会のあちこちから出され、これにどう対処するかということが大きな課題となっているわけであります。

 そこで教養とは何か、大学における教養教育とは何かということが問題となりますが、これがまた捉えどころのないものなのであります。教養とは何かについては中央教育審議会でも議論されましたが、はっきりしたことを社会に印象づけることにはなりませんでした。京都大学においても教養教育を今後どうすべきかについて、委員会や全学教育研究集会などで種々の議論が行われてきておりますが、一つには幅広い知識とともに各学部の専門教育の基礎となる基本的な学問を身につけるというところにも焦点をあてた議論となっております。しかし依然として教養教育とは何かについて、しっかりしたコンセンサスが得られているわけではありません。京都大学で学んでよかった、他の大学では得られない秀れた何物かを得、実力がつき、しっかりした人格が形成されたということになるための教養教育のあり方についての検討を、これからもつづけていかねばなりません。

 さて、人間環境学という言葉で誰もがすぐ思うのは、西欧における自然と人間との関係と、東洋、特に日本におけるそれとの違いであります。西欧では、人間は自然と対峙するもの、自然は人間精神とは別の客観的対象であるという概念が確立しており、そこから自然科学が発展し、今日の科学技術の世界が実現されてきているのでありますが、日本では古くから自然と人間とは共存するものという考え方が一般的であり、自然の中に人間が没入することに価値を認める人達さえ多くいたという伝統があります。しかし、特に戦後の急激なアメリカ文化の流入と科学技術の発展とによって、今日では日本が古来持っていた自然との共存といった考え方、文化が忘れ去られていることは残念なことであります。

 といいますのは、自然を人間の外にある、人間が分析し加工する対象と見ることによって発展して来た科学技術が、今日地球環境に対して大きな害悪をもたらしつつあるという事実であります。この地球環境問題を解決するためには、これを客観的に観察し、問題点を明らかにし、その解決方法を確立するという自然科学的方法が必要でありますが、このような西欧的科学技術の立場によってほんとうにこの問題が解決されるのでしょうか。この考え方の中には明らかに自己矛盾が存在するわけであり、このような人間を抜きにしたアプローチだけで、この深刻な問題が完全に解決できるとは思えません。人間と自然との共存、自然の中においてこそ人間が人間でありうるのだという考え方が明確に自覚される必要があるでしょう。

 人間・環境学研究科の名称には、人間と環境という言葉の間に点が入っていて、人間・環境となっているのは何を意味するのでしょうか。この研究科の創設にかかわられた方々にお聞きする必要がありますが、私は今日あるいは将来においては、人間と環境を対立的ととらえるのではなく、人間が置かれている環境、環境の中での人間という、人間と環境との相互作用をもっと積極的に探求してゆくという方向を考える必要があり、人間・環境学の中に使われている・はそのような意味にとるべきものと考えます。この場合の環境はもちろん非常に広い意味にとるべきもので、自然環境だけでなく、社会環境、人間関係等々、いろんな環境や場が対象となり、それを具体的、抽象的、また心理学的、哲学的に取り扱うべきものでありましょう。

  したがってこの学問においては、西欧的学問手法だけでなく、東洋的あるいは日本的な手法、実践を通じた学問、あるいは学問と実践の統合された世界といったものを追求すべきではないでしょうか。そしてこれこそ京都大学らしい学問態度であり、また人間にとっての教養、教養教育の道ではないかと思うのであります。学問を十分に身につけるのが教養であるのではなく、そういったことに裏打ちされて人がどのように行動するか(もちろん発言も行動の中に含まれますが)、そういうところに教養があるといってもよいでしょう。

  人間環境学はこれからの社会が最も必要とする学問であると言えます。京都という最も日本的な所にある京都大学から、将来の日本、あるいは将来の世界を導く人間と環境、人間存在についての新しい価値観が創出されることが期待されます。そして人間・環境学研究科こそがそのような価値観を創出するべき場所、できる場所であると考えます。フレッシュな大学院学生と日本の将来、世界と地球の将来を語り合いながら、新しい世界のための価値観を探求し、社会をリードして行っていただきますことを期待し、人間・環境学研究科の10周年をお祝い申し上げます。