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吉田泉殿開設にあたって 挨拶 (2007年6月27日)

尾池 和夫

京都大学には多くの研究所と研究センターが、宇治キャンパスをはじめ各地にあります。その研究所と研究センターの方々が、大学本部のある吉田地区で集まる場所が今までありませんでした。たいへん不便な思いをしておられましたが、このたび宿舎を改修して、「京都大学吉田泉殿」を開設することになりました。

教職員と学生の交流、研究会やセミナー、国際交流、産官学連携の相談、その他あらゆる教育、研究、社会貢献の活動にお使いいただければ幸いです。

この地域には、京都大学の清風荘、三才学林、女性研究者支援センターなど、日本建築が並んでいるということを意識して、この吉田泉殿も、木造住宅での耐震性と腐朽菌やシロアリに対する劣化に関する診断を行い、防災研究所や生存圏研究所の研究成果を活用して、耐震補強と長期維持のための工夫がなされております。

百万遍には皆様よくご存じの「かぎや政秋」というお菓子屋さんがあります。その場所に「吉田泉殿之跡」という石碑が建っています。

かぎや政秋は、京都大学より200年ほど古く、1696(元禄9)年の創業で、1930(昭和5)年に今の場所に移転され、そのとき新しく「学び餅」を考案したそうです。また、「黄檗」という、まさに研究所群のある宇治キャンパスにピッタリの銘菓も知られています。

その「かぎや政秋」のウェブサイト(外部リンク)に、京都帝国大学文学部国史学科を卒業した奈良本 辰也さんの書かれた「吉田泉殿の記」があります。これを引用します。

「古く平安朝の時代は、この辺り一面の原野であった。田中神社や吉田神社はすでに現在の場所に祀られていたが、此処百万遍のあたりには唯、比叡山への道が一本、寂しく続いていただけである。

西園寺公経が、此地に眼をつけて泉殿を営んだのが鎌倉時代の初めであった。

承久の乱後、公経は大政大臣に任ぜられ、位も従一位に進められた。藤原氏一門に於て最高の権威が保証されるのである。その地位と財力が、彼に幾つかの別荘を営ませた。

有名な金閣寺も、始めは公経が北山山荘を営んだところだ。他に山崎の円明寺、吹田の水郷などもあったが、この泉殿もまさにその一つである。

泉殿とは、もと寝殿造りに付随する建築であって、苑池にのぞんで建てられたものだ。昔の本に「夏は涼しき泉殿、鴨やおしどり織かけて」というような文句をみるが、それは納涼の場所でもあり観月の席でもあった。

その頃は、吉田神社の東北に源を発する叡山の湧水が此の辺りに清冽な小川となって流れていた。その小川の流れを引き込んで苑池が営まれていたのである。あくまでも美しく、そして清らかに澄んだ水の面に浮かぶ泉殿、ひとびとは、西園寺家のこの別荘を吉田泉亭と呼び倣はすようになっていた。」

1397(応永4)年、足利義満が西園寺公経の山荘の跡に「北山殿」と呼ぶ別邸を造って隠棲しました。後に義満の法号にちなんで「鹿苑寺」と号するようになったもので、それが今の金閣寺です。西園寺公経(きんつね)は公家であり歌人でした。

右京区嵯峨北堀町に鹿王院という静かな寺があります。足利義満が延命祈願をもって建てた禅寺で、枯山水の広々とした庭があります。この寺は金閣寺のイメージの元になったとも言われますが、今、女性専用の宿坊としても知られています。

そしてちょうど500年後、1897年に西園寺公望(きんもち)が京都大学を京都に誘致しました。西園寺公望は文部大臣時代に、教養ある市民の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」といった人でもあります。

その西園寺公望の屋敷であった清風荘と南北に並ぶ場所に、また京都大学の女性研究者支援センターとも並んで、この建物に由緒ある吉田泉殿の名をいただくことになりました。21世紀の教育と研究を推進するための拠点が、また一つ新しく生まれたことはまことに慶賀すべきことであります。

皆様の活発なご利用を期待して、お祝いの言葉といたします。

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