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博士学位授与式 式辞 (2006年5月23日)

尾池 和夫

 博士学位、まことにおめでとうございます。

 今日、新たに、64名の京都大学博士が誕生しました。博士学位を取得された方々、まことにおめでとうございます。ご列席の、副学長、各研究科長、学舎長とともに、課程博士48名、論文博士16名の皆さんに、また、ご参列のご家族に、心からお祝い申し上げます。

 京都大学にはさまざまの分野があり、皆さんが精魂込めて仕上げられた学位論文をしっかりと審査する教員がいます。学位授与式のたびに、私は審査報告を読ませていただくことを楽しみにしています。とくに興味深い審査報告に出会うとその学位論文そのものを拝見する場合もあります。審査報告の一つひとつに申請者の苦労と工夫の軌跡が描かれているとともに、審査された教員の熱意をそこから読み取ることができます。

 皆さんの学位論文は、国会図書館や京都大学図書館に保管され、世界の人々の閲覧に供されます。それによって、それぞれの関連分野に貢献し、世界の人類の知的財産として蓄積されていくのです。京都大学は、創立以来の歴史の中で、3万4,072名の博士を送り出してきました。学位論文の蓄積がまた新たな研究を進める基礎になり、後輩の育成に貢献することになります。

 本日の学位論文にも多くの興味深いものがありました。また私にはとても難しくて短時間では理解できないものもありました。医療に関連する論文もあります。私自身、9年前に急性心筋梗塞で救急車で運ばれて、生命にかかわるほどの経験をして、集中治療室から医療のお陰でまた戻ってきて、身体障害者手帳を所持しながら仕事をしています。最近、血糖値が上がってきて、心筋梗塞の再発リスクを軽減するために、京都大学の病院の外来患者の一人になっています。したがって、論文の中で、自分自身の興味からも、生活習慣病に関するもの、あるいは医療全般に関するものに興味を持つことがあります。今回の学位授与にあたっても、いくつかそのような論文がありました。

 医学研究科内科系専攻の周 赫英(しゅう かくえい)さんの論文は、「インスリン作用低下状態でgastric inhibitory polypeptideは肥満及び脂肪酸酸化を調節する」という題目です。主査は、中尾 一和(なかお かずわ)教授です。

 人の生きている状態での血糖値は、インスリン分泌及び末梢インスリン感受性によって恒常的にある範囲の値に調節されます。消化管ホルモンであるGIP(gastric inhibitory polypeptide)という物質が、炭水化物や脂肪の消化吸収に伴って小腸から分泌され、脂肪細胞における栄養素の取り込みや、膵β細胞からのインスリン分泌を促進するという仕組みがあるそうです。

 この研究は、インスリン抵抗性モデルである欠損マウスと、GIP受容体欠損マウスとから、ダブル欠損マウスを作製して行われました。その結果、GIPシグナル遮断がインスリン抵抗性を改善すると考えられる結果が得られました。この研究成果は、糖尿病、インスリン抵抗性の治療に寄与するところが多いと評価されました。

 私が京大病院で治療を受けるようになって、自分のために学習した患者としての知識ですが、糖尿病には種類があって、1型糖尿病は、膵臓のβ細胞というインスリンを作る細胞が壊れて、インスリンの量が絶対的に足りなくなって起こるものであり、2型糖尿病は、インスリンの量が少なくなるか、肝臓や筋肉などの細胞でのインスリンの働きが悪くなって起こるものだそうです。後者は生活習慣が関係していて、日本の糖尿病の多くは後者だと言われます。

 人間・環境学研究科共生人間学専攻の稲田 扇(いなだ おおぎ)さんの論文題目は、「2型糖尿病患者の医療費とQOLの研究」です。主査は、津田 謹輔(つだ きんすけ)教授です。

 糖尿病患者人口は急激に増えており、日本の糖尿病医療費は現在1兆円をこえ、今後も増え続けると考えられる、というのがこの論文の動機であり、患者数と医療費の急速な増加を食い止める必要があると、報告に書かれています。この論文は、糖尿病に要する1年間の医療費と患者のQOL(Quality of Life)について調査、研究したものです。京大病院に通院中の糖尿病患者161名の医療費を調査して、合併症の有無、治療法、通院回数などを分析して、さまざまの原因で医療費には個人差が大きいことがわかりました。また、病院で支払う医療費とは別に、家庭で糖尿病のために支払う直接非医療費と呼ばれる費用を調べました。食事療法、健康食品、運動療法、健康器具、交通費、派生医療費、その他患者が糖尿病のために支出した費用であります。

 研究の結果、糖尿病科で通院する患者は大変多様であり、個々に合わせた治療が必要であり、そのために個々の患者の医療費の差も大きく、糖尿病医療費は包括医療に馴染まないことが指摘されました。また、病院に頼らず患者自身の生活改善を推し進める政策は有効と考えられること、合併症、とくに腎症の進行を食い止める必要があることもわかりました。この論文では、患者のQOLを考慮に入れた新しい視点からの対策の提言が、たいへん意義のあるものであるという評価を得ています。

 経済学研究科現代経済学専攻の渡辺 励(わたなべ れい)さんの論文題目は、「医師の選択行動とその医療経済への影響」です。主査は、西村 周三(にしむら しゅうぞう)教授です。

 この論文は、医師の裁量行動に焦点をあて、そこでの選択行動が医療費と医療効果に与える影響について分析したものです。近年、EBM (Evidence Based Medicine)ということが強調されています。一般に、「科学的に検証された最適な治療方法はきわめて限られているかのごとき印象が持たれているが、実際には治療には不確実性が伴い、また患者の意向も尊重する必要があるため、医師の治療方法の選択肢は、想像以上に広いこと、このため逆に、一般市民には、しばしば医師が金銭的インセンティブによってその選択行動が左右されるのではないかという疑念をもたれること、また患者の医学知識の多寡が治療選択に影響する可能性があること」というような仮説のもとに、調査と分析が行われ、その結果、この論文では、これらを実証的に明らかにすることが、診療報酬制度などの医療制度のデザインにとって不可欠であることが指摘されました。

 また、終末医療費において、どのような治療選択が医療費にどの程度影響しているのか、という分析は、意外なことに世界的に見ても皆無だそうですが、この論文では、人工呼吸器の使用に関して、この問題を取り扱っています。さらに、もっとも重要な医療経済的課題として、検診をどの程度の頻度で行うことが適切かという問題にも一定の結果を与えています。

 自らも医師資格を持つ申請者によって、取り上げられたいずれのテーマも、日本の医療経済に関連する政策課題と密接に結びついていて、本論文は、医療政策にとって知りたい喫緊の疑問に迫るための大きな突破口を開く研究であるといえる、と高い評価を得ています。

 人の健康と医療の問題に関心があると同じように、人の住む地球環境の問題にも、私は深い関心を持っています。京都大学の学位論文にも多くの重要な研究成果が蓄積されていきますが、今回も興味深い課題の学位論文がありました。

 工学研究科都市環境工学専攻の余 輝(よ き)さんの論文題目は、「湖沼水質に及ぼす湖湾と主湖盆との相互影響に関する研究-琵琶湖塩津湾を例として-」です。主査は、津野 洋(つの ひろし)教授です。

 本研究では、湖沼を管理するための予知の手法の提示を目的として、琵琶湖の北湖と塩津湾とを研究の対象として選び、湖の主湖の湖盆と湖の湾との相互の影響を調べました。研究は、流動機構の解析、湖沼の化学的、生物学的特性に及ぼす物理学的な環境因子の影響のプロセスの究明、水と物質収支の把握などについて詳しく展開されました。論文は、得られた知見と手法をモデル化し、汎用性のある湖沼管理マニュアルとしての湖沼生態系モデルの提示を試みた内容です。

 この湖沼生態系統合モデルは、湖沼の現状把握、水質管理および将来の予測において有用性が高く、また、機構の解明や手法の提示などにおいて他水域でも応用できるものとして、またこれらの問題を定量的に検討しうる手法を提示したものとして、評価されるものです。

 京都盆地の地下には分厚い堆積層が発達していて、豊富な地下水を蓄えています。これは活発な活断層運動によって形成された地下構造があってはじめて存在可能な大きな水瓶であり、京都に発達した都の文化は、この地下水によって実現してきたということができます。同じように大規模な活断層運動で近江盆地が発達し、琵琶湖西岸断層の運動でできた活断層湖である琵琶湖の国である近江にも、淡水湖と市民の長いお付き合いの歴史があり、湖の文化が蓄積されてきました。その琵琶湖の環境を守るために滋賀県の人々の熱心な取り組みがあります。

 京都盆地の地下水の文化も、近江盆地の淡水の文化も、ともに京都大学の研究者が深く関わる地域の文化であり、そのローカルな文化との連携による研究活動と研究成果が蓄積されることによって、それはグローバルな知的財産となるのです。

 このような地下水や淡水の水の文化を考えるための一助にという思いもあって、京都大学と早稲田大学の協力で「ホワイトナイル」というビールを黄桜酒造株式会社でつくっていただきました。この製品には、早稲田大学の古代エジプトの研究成果、京都大学に保存されている貴重な小麦の種子、また京都大学での味に関する研究成果なども取り入れられています。

 本日学位授与された一つひとつの論文は、あるいは五木 寛之の「大河の一滴」であるかもしれません。あるいは、志賀直哉が書いた「ナイルの一滴」かもしれません。また、方丈記に鴨長明が述べた「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というものであるかもしれません。また、ときにはこの論文そのものが、歴史に残る一冊になることもあるでしょう。いずれにしても、京都大学だけでも、今日博士学位が64名に与えられたように、これらの成果が集まって、人類の大きな知的財産になっていくのであります。

 今後とも皆さんが、さまざまの分野で、本日の学位論文の成果を活かして発展させ、あるいは新たな分野へ進出して、ますます活躍されることを祈って、博士学位のお祝いの言葉といたします。お祝いにせひ「ホワイトナイル」で乾杯をしていただきますように。

 博士学位、まことにおめでとうございます。

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