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退職教授懇談会 挨拶 (2004年4月5日)

 先生方にもたいへんご協力いただきまして、新しい京都大学がこの4月1日に発足しました。ほんとうに長い間、京都大学のためにご努力をいただき、ありがとうございました。ご停年によってご退官の先生方、本当におめでとうございます。ここで退官という言葉を使うのも最後になります。ご停年をお祝いするというのは、昔は平均寿命が短かったからだということを、この席で、10年ほど前に井村 裕夫先生から教えていただいたことを思い出します。
 本来なら、私自身も、皆様方と同じように、地震学の研究者として、今年の退職者の列に並ぶはずでありました。その予定が変わってしまって、ご挨拶を申し上げる側に立っておりますが、感慨深いものもあって、日本の地震の歴史と京都大学の歴史を比べてみました。

 京都大学という名がはじめて使われた記録は、1891(明治24)年8月に作られた「京都大学条例」であろうと言われています。その第一条は「京都大学ハ天皇陛下ノ特別保護ノ下ニ立チ」と始まっていますが、京都大学百年史には、基本的な考え方は、大学自治を念頭においた内容になっている、とまとめられております。
 この年、10月28日、マグニチュード8.0の巨大地震である濃尾地震が起こりました。この地震は、死者7273名という大震災をもたらし、内陸地震としては最大級の地震として知られているものです。京都でも震度5の揺れがありました。このときから西日本は地震活動期に入って、それは20世紀の前半へと続きました。
 この地震活動期のピークは1940年代でした。1943年鳥取地震が内陸に起こり、1944年12月7日の東南海地震、1946年12月21日の南海地震と、プレート境界の巨大地震があり、さらに1948年福井地震があって、西日本の地震活動期は一段落しました。京都帝国大学は、地震活動期と時期を同じくして始まり、そして終わりました。
 まるで、地震活動期の終わりに合わせるかのように、1949年5月31日、現在の4年制の大学が、3本の柱を持って発足しました。その柱は、憲法や教育基本法で保障された「学問の自由」、学校教育法で定められた「学術の中心としての大学」、および「大学の自治」であります。

 20世紀の後半になって、西日本では地震活動の静穏期が続いておりましたが、大学院の堀高 峯さんと私とがそのことの論文を1993年に発表して、間もなく次の活動期が来るでしょう、という話をした直後、1995年兵庫県南部地震が起こり、西日本はまた次の地震活動期を迎えたのです。私が地震学をはじめた頃から、管理職になって地震観測が出来なくなるまでが静穏期で、学生たちには、きみたちは幸せだと地震学の講義で話しました。
 今年、2004年4月1日、国立大学法人法によって国立大学法人京都大学が設置され、その法人が第3番目の「京都大学」を設置しました。この京都大学という名前は変わりませんが、設置形態が変わったのであります。
 このように約50年に1度、京都大学は大きく脱皮するような遺伝子情報をもっているのかもしれないと思いながら、新しい京都大学の出発の日を迎えました。

 長い間、京都大学の教員として、研究成果をもとに知財を蓄積していただき、また多くの学生たちを育てていただいたことに、京都大学を代表してお礼を申し上げます。皆様が末永くお元気で、さらなるご活躍をされますよう祈りながら、私の挨拶といたします。

 ありがとうございます。

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