周知のとおり,今年創立百周年を迎える京都大学では,11月2日の記念式典を中心に様々な行事が準備されている。京大百年の歴史のなかで,創立記念をこのように盛大に祝う行事にはどのようなものがあったのだろうか,簡単に振り返ってみたい。
創立記念の祝日そのものは,創立直後の1898(明治31)年から存在したことは,すでに本連載でも述べた(連載第21回,「京都帝国大学における祝日の変遷」,『京大広報』№506)。そしてその祝日が何回も変更された事情についてもそこで述べたとおりである。このように創立記念祝日とそれに伴う式典は早くから行われていた。行事の中身としては,当初はいわゆる儀式のみであったが,史料によるとおそらく1905年ごろから,年によって違いはあるが,講演会を開催したり,観覧券を要所に配付して学内開放を行ったりするようになったらしい。
上述のような毎年の式典とは別に,ある特定の年限を区切って大々的に創立を祝う事業の最初は1922(大正11)年の創立25周年式典である。「25」という数字を区切りと見る考え方はおそらく西洋式の紀年の導入とともに採り入れられたものであろう。京大でも創立後しばらくすると,欧米の大学の「百年祭」「五百年祭」等に招待されることが多くなってくるが,自らの大学でも同様の式典を,という思いが構成員に強くなったとしても不思議ではない。ちなみに東京帝国大学では,一足先に1902年に「大学創立二十五年紀念式典」が計画されていた(ただし理由は不明だが,この式典は挙行されなかったらしい)。さて記念行事の中身だが,久邇宮邦彦王・多嘉王を招いた式典のほか,勤続者表彰,記念講演,絵はがき配付,学内開放・展示,祝宴,園遊会などが6月18日から20日にかけて行われた。このうち勤続者表彰は25周年で初めて実施され今日まで続いているものであり,大学主催だった園遊会はこの2年後に学生主催に生まれ変わり,今日の学園祭の淵源的な位置を占めた(連載第22回,「京都帝国大学における祝日の変遷(続)」,『京大広報』№508参照)ように現在まで続く行事がいくつか25周年で始まっている。さらに,25周年を記念した募金によって楽友会館が建てられた(写真参照)ことも忘れてはならない。
次の大きな区切りは1947(昭和22)年の50周年だった。学内では準備委員会が設置され,そこでは様々な企画が提案されたようである。まず注目されるのは,創立記念日の6月18日には名誉教授の懐古談のみ行い,大規模な記念祝賀式は10月下旬(25〜31日)に催されたことである。これは準備委員会の議論のなかで,6月18日は梅雨時であり食べ物の腐敗が懸念されたこと,4月5月は入学直後で慌ただしいことなどを理由として秋の開催が決定されている。70周年式典や今回の百周年式典もこの時の決定を踏襲しているわけである。その祝賀行事の中身としては,当該時期の授業を休止した上で,農学部グラウンドでの記念祝賀式に始まり,学内開放,講演会の開催のほか,映画の上映,美術や京大の歴史の展覧会,模擬法廷,弁論大会,さらには野球大会や運動大会なども行われた。この祝賀行事は開催の規模でいえば,25周年式典はもちろん後年の70周年のそれも上回るものであった。そして注目すべきことの第二は,主催に京都大学とならんで京都大学同学会の名がプログラムに記されていることであった。学生の主体的参加ということは準備委員会の当初から言われていたことであり,実際に行われた催しの半分以上は同学会の主催になっていた。前述した昭和初期の園遊会がいっとき復活した形であった。
50周年では,このほか多数の学生を収容できる学生記念会館の建設や大学叢書の刊行なども計画されたが,1947年という敗戦直後の諸事困難な時期だったせいか,これらの計画は実現しなかったようである(実際,この前年には食糧事情の悪化のため夏季休暇が6月17日からに繰り上げられ,創立記念式典が延期されるということもあった)。
その次の記念事業は1967(昭和42)年の70周年で,記念式典(11月3〜5日),『京都大学七十年史』の刊行,総合体育館の建設,大学会館の建設,国際学術交流のための奨学資金の設定が実施されたが,まだそれほど時間のたっていないことでもあるし,ここでは詳細は述べない。
創立記念事業にはいろいろな意味付けが可能だろうが,大学の歴史と未来を考える好機であることは間違いない。「100」という初めての大きな区切りを迎えるにあたって京大が自らの歴史をどう考えるか,大きな課題だといえよう。
楽友会館(1930年頃)
(百年史編集史料室)
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