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2017年春号

授業に潜入!学生目線で授業を体験しました
地域地理学——全学年対象

地図にのこされた歴史の痕跡をたどる
「教養・共通科目」潜入レポート 人文・社会科学科目群〈分野〉地域・文化

山村教授のイラスト

山村亜希准教授
人間・環境学研究科 共生文明学専攻文化・地域環境論講座

授業計画
授業で取りあげる地域:京都市東部(洛東)/京都市左京区北白川/大阪府高槻市・茨木市/大阪府 大和川と古市古墳群/奈良県大和郡山市/広島市/京都府舞鶴市・伊根町/東京都武蔵野台地と玉川上水/札幌市/名古屋市/佐賀平野/京大吉田キャンパス

ここがポイント!現代にくらす私たちが、ある〈地域〉の特徴を語るとき、その土地の歴史と切り離すことはできない。〈地域〉は、地形や地質などの地理的な条件、地震や水害などの自然災害による変化だけでなく、時の為政者による大規模な開拓や土木工事、住民たちが生き抜くための知恵など、人間社会が長い歳月をかけて形づくってきたもの。そうした土地の〈個性〉は、現代にも色濃く息づいている。

受講生には毎回、新しい一組の地図が手渡される。ある地域の明治・大正期の古い地形図と現代の地形図。この二枚の地図を「読図」することが授業の主軸。

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〈地域〉は地理と歴史の産物です。過去の地図情報や目に映る現在の風景を手がかりに、その変遷と要因を考察するのが「地域地理学」という授業です。近代化される以前の古い地形図に目を凝らすと、等高線の数や密度、地図記号などから、その地域の起伏や土質など、その土地が旧来そなえている特性が浮かびあがってきます。さらに、現代の地形図と見くらべることで、そうした地域の特性が現在の風景にどう影響しているかを推定できるのです。

山村准教授が学生に期待するのは、地図から〈新しい発見〉を得ること。その情報を、この授業でみんなと共有し、山村准教授が補足する歴史的事実をふまえて考察を深める。「そんな見方があったのか」と、仲間の発表に刺激されて奮起する学生は多いという。

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回を重ねるにつれて、学生たちの読図力は高まって、ユニークな発見が増えるんです。

〈新しい発見〉を共有する

資料:大阪府 大和川と古市古墳群の周辺地図2種───1885年、2006年

前回の授業で配られたのは、大阪府中東部の地形図(地図A)。東には信貴山、南には大小多数の古墳が集積する「古市古墳群」がある。1885年と2006年の地形図を見くらべた学生たちの〈発見〉に、山村准教授が新たな情報を提供する。

配布された1885年の地図(地図A)の部分拡大

大阪府 大和川と古市古墳群の周辺地図2種───1885年、2006年

学生1885年の地形図には、古墳の斜面に荒地や畑、水田の地図記号があります。かつては古墳も耕作地として活用されていたと推測できます。

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「安閑帝陵」の南に城跡記号があることに気づいた人はいますか。これは、安土桃山時代に織田信長軍と三好康長軍が戦った「高屋城の戦い」の舞台となった「高屋城」です。15世紀ころに、古墳の丘陵をいかして築城されました。

明治期の地図を見ると、古墳の斜面地は耕作地、周囲の堀はため池として利用されています。荒れ地の記号がついた古墳は、つかいづらくて放棄されていたと読み取れます。現代の私たちには、「古墳はお墓だから荒らしていけない」というタブー意識がありますが、戦国時代や江戸時代はおかまいなしで、「つかいがってのいい小山があるぞ」という感覚だったのでしょう。地図からは、当時の人びとの価値観までも見えてきます。

〈読図〉の視点と手法を学ぶ

資料:奈良県大和郡山市周辺の地形図2種──1997年、1885(明治18)年

学生たちに新たに配られたのは、奈良盆地北部に位置する大和郡山市の地形図(地図B)。山村准教授が注目したのは……。

配布された地図Bの部分拡大(国土地理院発行の地形図を使用した)

奈良県大和郡山市周辺の地形図2種──1997年、1885(明治18)年

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大和朝廷や平城京に象徴されるように、奈良盆地一帯は、古代日本の中心地として栄えた「歴史ある土地」として知られています。でも、「歴史がある」って、いったいどういうことでしょう。法隆寺や東大寺など、古い時代の建造物が残っていることは、その一つの証かもしれませんが、奈良盆地のもつ「歴史の力」は、じつは私たちの生きている現代にも脈々と受け継がれ、いまなお大きな影響を与えているのです。

「ため池」の大きさと形に注目!

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この地図には、大小さまざまな「ため池」がたくさんあります。ほとんどが大和郡山市の特産品である金魚の養殖池です。この池が、整った方形であることに気づきましたか。ここからなにがわかるでしょうか。

地図の右側、黄色に着色した区画には、2010年に大型ショッピングモールが建設されましたが、地図がつくられた1997年の時点では、その敷地の一部に「法間田池」という正方形の池がありました。縮尺から換算すると、一辺はおよそ109m。この数字にピンときた人はいますか。これは「条里」の一坪ぶんですね。古代の農地開拓や荘園経営のさいに、土地を方眼用紙のように区切ったのが「条里」のシステム。一坪をさらに細分化して、耕作地として農民に分けあたえたのです。現代の地図をながめると、道路やため池の位置に、条里のなごりがのこっていることがわかります。

条里よりも大きな方形が意味するものは?

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ショッピングモールのさらに北にも、方形に区切られた土地があります。赤枠内の「上池」に注目してください。法間田池よりもひとまわりほど大きいですね。ここにもヒントが隠れています。

奈良といえば平城京。ショッピングモールの北側の道路は、じつは平城京の南端にあたる九条大路。これより南は農地ですから、北側の大きな方形は平城京という都市の一部ということです。平城京の敷地内は「坪」ではなく、一辺120mの「町」を基本単位とする「条坊制」に基づいて碁盤の目状に整備され、宅地を分けあたえるさいの基準となりました。

条里と条坊の痕跡を現代の地図から探す

山村准教授からいくつかの〈読図〉の手がかりをもらった学生たち。みずから手を動かしながら、地図の世界に、さらに深く入り込む。

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それでは、1997年の地図から条里と条坊の痕跡を見つけだし、色を塗って、復元してください。古代の条里・条坊のシステムはかなりの濃密さで、現代のくらしにも息づいていることがわかるはずです。

現代の地図にちりばめられた条里と条坊の痕跡

地図を見つめていると、住宅団地に整備されたまっすぐな道、住宅メーカーの工場の敷地などは、条里や条坊の区画にのっとっているとわかる。赤枠内の辰市小学校は、敷地そのものが条坊一個ぶんに相当することを発見する。

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工場や住宅地をつくった現代の人びとが、わざわざ条里や条坊を意識したとは考えづらいですね。でも、現代のまちづくりは、ことさら意識せずとも、おのずと1300年前の条里・条坊にのっとっている。古代の都市・農村づくりが、現代の景観にまで強く影響していることに気づきます。

奈良の風景を見て、「長い歴史があるね」というのはかんたんですが、私の考える歴史はそんな生やさしいものではありません。奈良盆地にいるかぎり、条里・条坊から離れて生活するのはむずかしい。「歴史にからめとられた景観」が、奈良盆地の地域の基盤になっているのです。

(2016年11月18日 4限)

こんなことを伝えられたら…… ものごとの見方をガラリと変えてくれるのが大学の教養科目です。地理学は、その一つといえるでしょう。「地図の見方」を手に入れれば、身の周りの風景が一変します。

京都大学の学生時代、私が影響を受けた教養科目も「地理学」でした。若いころは自由なようでいて、意外と常識に縛られて、自由な発想が生まれにくい。大学の授業は、そんな狭い思考の枠に収まらず、どんどんはみだしてゆく。「これが京大の知性なんだ」と興奮し、「京大の先生に負けない知性を身につけたい」と、あこがれました。

じつは私、入学してしばらくは大学になじめずに悩んでいました。どの時代にも、そういう学生は少なからずいるはず。だけど、「大学は学問をする場所」という原点を意識することで、怖くなくなった。さみしくなったら好きな授業に出て、本物の学問のおもしろさを味わえばよい。教養科目の地理学の先生は、背中でそう語ってくれました。

授業をとおして活路をみいだした20年前の私の姿を、目の前の学生たちに投影しています。私もあのときの先生のように、背中でなにかを伝えられたら……。そんな気持ちで教壇に立っています。

山村教授の写真

やまむら・あき
京都大学大学院文学研究科博士後期課程地理学専修を修了し、博士(文学)を取得。京都大学総合博物館助手、愛知県立大学文学部准教授、同大学日本文化学部准教授などをへて、現職。

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