京都大学広報誌
京都大学広報誌『紅萠』

ホーム > 紅萠 > 授業・研究紹介

萌芽のきらめき・結実のとき 藤原辰史先生

2016年秋号

萌芽のきらめき・結実のとき

食べることを考えることは世界を考えること

藤原辰史
(人文科学研究所 准教授)

「取りたてのトマトを畑でがぶり。青い匂いがする。ぼたぼたとこぼれる果汁で服に染みができる」。トマトの背後にある農家や土壌微生物の働きに敬意をはらい、藤原辰史准教授が発することばは、生々しく、五感に訴えかけてくる。農業史から台所、戦時中の食料政策まで、「食」とその歴史を軸にあらゆる事がらから歴史を見つめ、新しい視点を提示してきた藤原准教授。農村を描いた小説をとおして、「食」を見つめたさきに、現代社会の問題点がみえてきた

 緑があふれ、鳥がさえずり、太陽はまぶしく、空気は澄んでいる。都会の人びとがいだく、このような風景だけでは農村は語りきれない。「大学に進学するまで、島根県の農村で育ちました。夏になると、田んぼではいっせいに農薬がまかれ、周囲は黄色いもやに覆われます。その中を自転車に乗って通学しました。現在では、無人ヘリコプターが畑の上空からシャワー状の農薬をまきます。農村ではあたりまえの光景ですが、私は密かに『この農薬を吸っても大丈夫だろうか』ととても心配していました」。

経済データよりも鮮烈な小説の記述に光を見出す

 農業経済学をはじめとする学術研究では、農家の経済事情のデータ分析は多数あっても、農家への健康被害や苦悩の内実までがとりあげられることは少ない。「いっぽう、小説や映画には、長年の農作業で腰が深く折り曲がってしまった農夫の容姿や腰痛、農薬害による手足のしびれに苦しむ日常が描かれたりする。数字のデータよりもありありと、農家の姿が私にせまってくるのです」。

 近年、藤原准教授の心をとらえて離さないのは小説家・伊藤永之介。「どぶろく密造によって餓死線上を生き抜く人びとを描いた代表作『梟』のように、人びとの貧しさを一所懸命に描く作家です」。

 
『熊』
『刑務所志願』
『雁』
『南米航路』
『山櫻』

「私たち人文科学をあつかう人間は、全身を触角のような状態にして、書物の中をかぎまわり、ことばのもつニュアンスや輝きを注意深く観察します。伊藤もきっと、全身を触角状態にして、人びとの動きを見ていたのでしょう」

 伊藤の小説には、貧しい農民はもちろん、無免許の産婆や出稼ぎなど、農民になりたくてもなれず、自分が何者なのかを定義できない人物が頻出する。人びとは〈労働者〉〈農民〉〈主婦〉などとひとまとめにされがちだ。しかし、一人ひとりの日常には、それぞれの悲しさやつらさ、楽しさといった感情があやをなして存在しているはず。「一人ひとりの伝記を書ければいいのですが、きりがありません。そこで伊藤が見出したのが、人びとが交差する『場所』を描く小説だったのです」。

 描かれるのは、駐在所や駅、待合室などの人が集まってくる場所。「固有の悲しみをかかえた、まったく異なる人びとが、これらの場所においては関係しあい、すれ違い、世界を構成する一部になる。『伊藤の小説なんてただの風俗小説だ』という批判もありますが、私はここに伊藤の描写のもつ独特の多声音楽的ポリフォニックな効果を見ています」。

フィクションと現実を往復した歴史研究を

「とはいえ、私はしょせん歴史研究者。遺された文献をひも解いて事実関係を調査し、世の中がどう変化したのかを分析します。小説の表現方法や作家の人物像を論じるのではなく、小説が描かれた時代背景を調べることが仕事です」。

 小説を介した歴史研究に可能性を見出すきっかけとなったのが、1956年に伊藤の書いた短編小説『牛とウラニウム』。アメリカのアイゼンハワー大統領が原子力の平和利用を提唱し、日本も原子力行政を推進しはじめた時代が舞台だ。「ウラニウム(ウラン)が沈んでいるという噂のある沼を自分のものにしようとする山師や、ウランが入っていると信じて10円玉銅貨を20円で買う男など、ウランに一攫千金を夢見る人びとの興奮とその社会への伝染の様を描いた小説です。その背景を調べるため、当時の物価や、日本政府にとってのウランの意味などを調査しました」。

 伊藤はフィクションの小説だけでなく、福島県石川町のウラン鉱山の労働者の取材記事を書き遺していた。「小説で山師が求めたウランが眠る土地は、当時、実際にあったようです。ウラン鉱山に対する人びとの熱狂やウランの選別に雇われた農婦がいたのは事実で、小説はこうした現実をもとに組みたてられたとわかる」。

 いっぽう、取材記事はたんなる報告ではなく、農村地帯の貧困にも踏みこんでいた。「農村の貧困を描きつづけた伊藤の問題意識が表れています。小説と取材記事を往復し、比較しながら研究すると、立体的に歴史が見えてくる。現実もフィクションも、一歩踏み込んだ分析が可能になるのです」。そうして、藤原准教授はその時代の生々しい空気感の中に深く身を沈めてゆく。

風のにおいのする歴史を書きたい

 こうした作業をくり返すなかで藤原准教授が光を見出しているのが、「新しい歴史の書き方」。事実確認を重視するあまり、最近の歴史書は禁欲的になり、心が躍ることが少ないと憂慮する。

「当時の風のにおいのする歴史を描きたい。インパクトを重視して嘘の記述でだますものでも、読者を無視して分析結果をひたすら書きつらねる文章でもない。虚構を通じて現実を生々しく伝える小説の叙述に学びながら、情理一体の歴史研究をめざしたいのです」。

食べる・噛むことが弱々しい世界ってなんだろう

藤原辰史先生
「農業はかっこいい仕事です。農業技術はIT産業には永遠にかなわない長くて深い歴史がある。私は農村から、憧れの都会にきました。私が世界でもっとも役にたつのは、農家を継いで農業をすることだったはず。なのに、農学研究でさえなく、農業の歴史を研究している。いつもどこかに後ろめたさをかかえていますが、せめて、農家の土づくりの仕事に届くような仕事をしたいと自分に言い聞かせています」

 いろいろなファクターをとおして歴史を語ろうと試みるが、いちばんの関心ごとは、徹底して「食べること」。「味噌を食べることは、大豆を発酵させた微生物もいっしょに口にすること。ドラッグストアには、『除菌・滅菌』ということばがあふれていますが、菌は発酵を通じて食べものを食べやすく、おいしくすることにも貢献します。食べものの背後に思いをめぐらせることは、世界のしくみを考えることにつながります」。

「現代って、人間やモノとの関係性が、即効的になってしまったと思いませんか」と嘆く。「映画や小説の広告は『泣ける』という宣伝文ばかり。でも、泣けない悲しさやせつなさもあるでしょう。恋愛ドラマも、『告白しない』ことや『話しかけられない』ことに葛藤や本音が浮かびあがることがある。でも、いまは細部はどんどんはぶかれて、わかりやすさが求められる」。

「これは、とくに食べものに顕著です」と、気がかりな食事例を列挙する。人工の調味料や甘味料でかんたんに味がつけられる。ゼリー飲料やサプリメントは胃袋にいっきに流しこまれる。芸能人はテレビ番組で地域の特産品を食べてもコメントが貧しい。「栄養補給の効率だけを考えれば、味つけや噛むこと、ことばを交わすことはむだなことかもしれない。でも、これほどまでに『食べる』行為がないがしろにされる世界ってなんだろう。これが出発点です」。

めんどうなほど、愛しくて楽しい

 即効性ばかりが偏重されがちな現代社会のなかで、一条の光を伊藤永之介に見出す。「伊藤は、人びとの内面を描くために、『悲しい』、『つらい』などとは語らせず、目線や手の動き、声の抑揚などをていねいに描写します。微妙な動作に、ことばにならない人びとの苦しみや悲しみが宿っています」。

 たとえば、このインタビューのように、直接話を聞けば、相手の考えや感情が身ぶりや表情によっても届く。動作から思いを読みとるのは、ことばで伝えるよりも、めんどうでエネルギーがかかる。「伊藤の小説を読むと、細部からものごとを感知する想像力を人間はもっているのだと思いだし、勇気づけられるのです。めんどうがかかるものほど、愛しくて楽しく思えてきて、深く心に刻まれる。食べものの新しい価値観を考えることをとおして、〈めんどう〉や〈むだ〉が介在する関係を取りもどしたい。それが私の核です」。

ビブリオトークのようす1

ビブリオトークのようす2

2013年に熊本市の慶誠高校で開催された人文研アカデミー「食をめぐるビブリオトーク」の模様。講義のあと、慶誠高校の高校生たちや参加した市民と第一次大戦期のドイツのレシピを調理し、試食した

アイントップとポトフ

第一次大戦期当時と同じ食材で、ドイツの家庭料理のアイントップ(写真左)とポトフ(写真右)を再現

人文科学研究所
人文科学研究所人文科学研究所は、京都大学の附置研究所であった同名の研究所と東方文化研究所、西洋文化研究所が統合して、1949年に発足。文献学、フィールドワーク、共同研究の手法をもちいて、さまざまな文化の価値や相渉関係を探究することをめざす。人文学研究部、東方学研究部の2部に分かれ、所員は個人研究に取りくむかたわら、共同研究にも参画。人文研の特徴の一つをなす共同研究班は、分野や領域を超えた研究者を学内・学外、さらには国外から募り、組織されている。(紅萠29号に掲載)

ふじはら・たつし
1976年、北海道旭川市に生まれ、島根県横田町(現奥出雲町)で育つ。1999年に京都大学総合人間学部卒業。2002年、同大学院人間・環境学研究科中途退学、同年、京都大学人文科学研究所助手。東京大学大学院農学生命科学研究科講師をへて、2013年から現職。

授業・研究紹介

関連リンク

関連タグ

facebook ツイート