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追憶の京大逍遥

2016年秋号

追憶の京大逍遥

自由の学風に育まれて

唐池恒二さん
九州旅客鉄道株式会社 代表取締役会長

唐池恒二さん

 どう考えても、勉学にいそしんだ京大生だったとは言いがたい。学問や研究とは無縁の世界で過ごした四年間だった。なぜ、そんな京大生らしからぬ(いやひょっとしたら、京大生らしい)学生生活を送ることになったのか。

 最大の要因は、私自身の勉強嫌いと怠惰な性格、この二つである。敗者は、自分の非を認めたくないために責任をほかに転嫁することがよくある。私もその例にならって、あえてほかに原因を探すことにする。なんの苦もなく三つの原因が浮かび上がった。

京大柔道部の高い技量に打ちのめされて

 一つめは、柔道部である。一九七三年に法学部に入学すると同時に柔道場を訪れた。すぐに柔道着に着替え、稽古に合流した。高校二年のときに二段を取得しており、「大学でもそこそこやれるんじゃないか」と内心〈妙な〉自信があった。初日の先輩たちとの乱取りで、その自信はみごとに砕け散った。想像していた以上に京大柔道部のレベルは高かった。

 その後、次つぎに新入生が入部したが、彼らも高校時代に全日本レベルで活躍した猛者たちだった。負けてなるものかと稽古に精進しようと決意した。こうなると、授業どころではない。学問から距離を置きだしたのも充分に納得できる。

赤ちょうちん、柔道場と下宿を往復する毎日

 二つめは、下宿である。一回生のころの下宿は、京大病院南側の聖護院川原町にあった。たまたま隣の下宿の住人と仲良くなった。姫路市出身の経済学部三回生で、私の二年先輩にあたる。その先輩は、「お酒好き、面倒見がいい、宴会芸が得意」という当時の京大生の必修三大資質に恵まれていた。夜な夜な先輩と連れ立って北白川界隈の赤ちょうちんに出没した。こうなると、授業どころではない。このころから、「学生の本分は学業」という訓戒を忘れはじめた。

 三つめは、学生運動である。一九七〇年ころにピークを迎えた京大の大学紛争は、私の入学後もしぶとく意地になって続いていた。死傷者を出すような過激な事件はいくぶん収まっていたが、ヘルメットに覆面姿の学生たちがいきなり教室に乱入し、授業妨害をするという行為は依然として行なわれていた。

 二回生から下宿が東山東一条の交差点のすぐ西横に変わった。二日酔いから醒めて昼ころに下宿の門を出ると、目の前に機動隊の装甲車が並んでいる。そんな光景を見ると、とても授業どころではない。自然と足が柔道場に向いてしまう。

自由の学風が培った「おもてなし」の源

 これら三つの〈外的要因〉により、不本意ながら学問にかけるべき情熱を別のほうに振り向けざるをえなかった。

 大学を卒業して約四〇年。現在、JR九州の会長として社業のなかの雑用に没頭している。三〇代なかばから五〇歳までは、会社の新規事業ばかり手がけてきた。五六歳で社長に就任。社長在任中に、豪華寝台列車「ななつ星in九州」の運行を企画し、実現させた。

 新規事業や「ななつ星」のプロジェクトに関わって、確信をもったことがある。

「仕事でもっともだいじなことは、人と人とのコミュニケーションだ」

このことこそ、京大時代に下宿の隣の先輩と柔道部生活と京大の自由の学風から学んだことだ。

 そしていま思う。学生時代にもっと勉強しておけばよかったな、と。

七大戦

国立大学7校が開催する体育大会「国立七大学総合体育大会(七大戦)」にて。中央でトロフィーを抱えるのが、柔道部の主将時代の私

鉄客商売

「ななつ星」の誕生秘話や経営観、仕事観を語った近著『鉄客商売──JR九州大躍進の極意』(PHP研究所、2016年)

からいけ・こうじ
1953年に大阪府に生まれる。1977年に京都大学法学部を卒業。同年、日本国有鉄道に入社。1987年に国鉄の分割民営化によりJR九州に入社。2009年同社代表取締役社長、2014年代表取締役会長に就任。2013年には日本初のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」を実現させ、日本各地にJR九州の名を認知させる。

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